空へ!!ZERO | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

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AIR PAVILION MUSIC AGENCY
代表取締役社長

Royal Escort Grand Prix
名誉会長

MR. & MS. RUNWAY MODEL UNIVERSE
インターナショナルディレクター

内藤 飛鳥

涙止まらない。・゜・(ノД`)・゜・。

私の愛する零戦。
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どうか、誤解をなさらないでください。
零戦は、戦争の象徴ではありません。

明治維新から多くの日本国民、先人の弛まぬ努力と技術革新の結果として1940年前後に於いて世界最先端、最高峰の航空機として生まれました。

現在の日本の繁栄と平和な社会は、戦後の70年で作られたものではありません。

明治維新から150年の近代の中で日本人の誇りを持った一人一人の国民によって作り上げられたものです。

零戦はその道標としてより多くの人に正しい日本の近代の歩みを知って頂く為の遺産であり、動態保存をすることにより生きた歴史の証人として後世に伝えるべきだと、
「零戦里帰りプロジェクト」を進めるゼロエンタープライズ・ジャパンの代表は
仰います。
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 「零戦里帰りプロジェクト」を進めるゼロエンタープライズ・ジャパンは

27日、零式艦上戦闘機(零戦)のテスト飛行を海上自衛隊鹿屋航空基地で行いました。

操縦桿を握ったのは、米国で零戦操縦のライセンスを持つスキップ・ホルム氏(72)。

機体は、爆音を響かせ天高く舞い上がり、再び日本の大空でその雄姿を見せました。
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 今も熱烈なファンが多い「零戦(ゼロ戦)」。

正式名称は「零式(れいしき)艦上戦闘機」のため、
正しい略は「れいせん」です。

ゼロ戦は、当時の日本を代表する軍用機で、三菱重工業によって開発されていました。

 当時の世界の戦闘機の能力水準を見ると、
ゼロ戦のスペックは別格です。
航続距離と運動性能は目を見張るものがあります。

また、主翼の翼面荷重も他国に比べて低く、
旋回性能を大幅にアップさせています。

さらに、上昇性能も6000メートルに到達するまでのタイムが約7分で、これらが軍用機同士の空中戦(ドッグファイト)を有利に展開できる秘訣でもありました。

 これらを可能にしたのは、軍部の“ムチャぶり”ともいえる要求を満たすために、徹底して軽量化が進められたからです?

 しかし、軽くするということは使う素材も少なくなるわけで、防御性能の低下に通じかねません。

ゼロ戦は機体性能を重視するあまり、
【防御力を無視した】【人命を軽視した戦闘機だ】
という評価をされてしまうこともあります。

 戦闘機に限らず、何かを設計する際には設計思想が反映されます。

例えば、「航続距離を伸ばしたい」「格闘戦に強くしたい」など。

兵器の場合、設計思想は当面の戦略をベースに組み立てられる。「相手国はどこか」「どこを戦場と考えるか」「どのように戦うか」といったことを総合的に考えて、最もふさわしい兵器がつくられます。

 ゼロ戦は、資源に乏しい島国の日本にふさわしい軍用機として、航続距離、どの戦場にも投入できる汎用性、生存率の向上が求められた。生き延びるためには敵弾をかわす能力が必須ということで、格闘性能が重視されたのです。

 例えば、大陸国のドイツは遠洋に打って出る必要性が希薄なため、戦闘機の航続距離は総じて短かった。そのため、第二次世界大戦の「バトル・オブ・ブリテン」(イギリス空軍との航空戦)では、爆撃機を援護するだけの“スタミナ”を持つ戦闘機がなく大敗してしまいます。
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「ゼロ戦」のニックネームで知られる旧日本軍の零式艦上戦闘機。

再び日本の空を舞うことになりました。

1941年の真珠湾攻撃などで主力を務め、1945年の終戦までに約1万機が製造されながら、
飛行可能な状態で残っている機体は、
6機だけ。このうち、唯一の日本人オーナーが所有する機体が1月27日、
鹿児島県の海上自衛隊鹿屋基地でテスト飛行しました。
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