島津久子先生と島津斉彬公 | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

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インターナショナルディレクター

内藤 飛鳥



 島津 久子さんと言う方をご存知でしょうか?
(しまづ・ひさこ=山階鳥類研究所理事長島津久永〈ひさなが〉さんの母、
昭和天皇の五女貴子さんの義母)
享年106歳。でした。
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保護司として長く活動し、
日本更生保護女性連盟名誉会長。 なさった
私と母の大先生でした。

私が幼い頃から母は保護司をしていました。
刑務所に絵画を寄付したり、
クリスマスにはケーキを持って慰問に行ったりと、
高校生の頃から母に連れられ、
当時の更生保護婦人会の先輩の方々の御紹介で交換留学生の通訳のボランティアや、
社会を明るくする運動のお手伝いをしていました。
その影響もあってか、大学は社会学部を受験し、犯罪心理学、認知社会学を専攻していました。

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当時お会いできた【島津】氏で
自分の中で一番印象が深いのが
島津久子先生です。

私が【島津】と聴くと、
一番最初に島津久子先生、
清宮貴子様のご主人様でらっしゃる
島津久長先生を思い出してしまうのです。

皆様が【島津】と聴くと、先ず一番最初に思い浮かぶのが
【島津 斉彬】(しまづ なりあきら)かと思います。
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【清宮】島津貴子さんの夫君は島津久永氏です。
久永氏のお母様が島津久子先生。


島津久永----(父)島津久範----(祖父)島津忠義---「←養子縁組」----島津斉彬

篤姫---「←養子縁組」----島津斉彬

久永氏の祖父である島津忠義さんは大河ドラマに出ている斉彬様の養子として島津本家に入り、
薩摩藩主となっておられた方です。

同じく篤姫様も斉彬様の養女となられたので家系上は同じ血筋ということになります。

島津貴子さんにとっては義理の大叔母様ということになりますね。

血のつながり的には少し違いますが、
篤姫様の生まれた今和泉島津家も島津本家も元は先祖を同じくするご親戚です。

島津斉彬は
江戸時代後期から幕末の外様大名で、
薩摩藩の第11代藩主。
島津氏第28代当主。
薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人です。
西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てたことで有名ですよね。

簡潔に説明させて頂きます。

早くから英明の聞こえが高く、文武そして先見性に優れた人物でした。
ただ、父である島津斉興からは敬遠され、父親は斉彬の弟である島津久光を後見にしようとした為、薩摩国内が斉彬を推すグループと斉興の意見を支持するグループとで内紛状態になります。結局、幕府がこの内紛に介入し、斉彬が当主しなりました。

43歳で薩摩藩の当主となった斉彬は、西郷隆盛など改革派の下級武士たちを登用します。
薩摩領民の生活レベルの向上を図り、近代式軍隊の創設、新鋭軍船の建造、大反射炉の建設など西洋に習った富国強兵を実施。薩摩を日本一の工業・軍事大国へにしました。
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徳川斉昭や松平慶永、阿部正弘らと親交が深く、14代将軍の跡目争いでは慶喜の擁立に尽力しましたが、井伊直弼が大老に就任にし、紀州徳川家の徳川慶福が14代将軍に就いた為、慶喜派は急速に力を失いました。

50歳の若さで急逝しましたが、
一説には父斉興の一派が毒殺したという説もあります。
ちなみに13代将軍徳川家定の正室である篤姫の実父でもあります。

以前、大奥の勉強をさせて頂いた際に先程記述しました。
忘れてはならない篤姫についてご説明致しました。

薩摩藩島津家から第13代将軍・徳川家定の元へ輿入れした「天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)」です。

「天璋院篤姫と将軍継嗣問題」
「天璋院篤姫の出自」
「天璋院篤姫斉彬実子説」について、
詳しく検証していきたいと思います。


(天璋院篤姫と将軍継嗣問題について)
 天璋院篤姫と言えば、島津家28代当主の薩摩藩主・島津斉彬が、「将軍継嗣問題(13代将軍家定の跡目相続を巡る問題)」に関して、自らの推す一橋慶喜(後の徳川慶喜)を将軍の跡継ぎにするために、将軍家定との縁組みを発案し、島津家の一門である今和泉領主・島津安芸忠剛(しまづあきただたけ)の娘であった篤姫を自らの養女とした後、近衛家の養女とし、最終的に将軍家定の正室として輿入れさせたと伝えられています。

 つまり、斉彬は「政略結婚」のために、
篤姫と家定の縁組みを発案したと通説では言われているのですが、これについては、幕末薩摩藩史研究の第一人者であられる芳即正氏が、その著書や論文の中で強く疑問を投げかけられ、そして否定されています。

 芳氏の著書『島津斉彬』(吉川弘文館)によると、将軍家から島津家に対して、家定の正室を迎えたいとの要望があったのは、嘉永3(1850)年6月、家定の二番目の妻である公家の一条家から輿入れした秀子(澄心院)が亡くなった時期にまでさかのぼります。

 余り知られてはいませんが、家定は篤姫を妻にする以前、実は二人の女性と既に結婚していました。一人目は公家の鷹司家から輿入れした任子(天親院)、二人目は先程書いた一条家の秀子です。

 家定は最終的には篤姫とも結婚することになりますから、彼は通算で三人もの正室を持ったことになります。三人もの正室を持った将軍は、15代にわたる歴代の徳川将軍の中でも、家定ただ一人だけです。

 しかし、家定は円満な結婚生活には恵まれませんでした。
 篤姫が輿入れする以前に結婚した公家出身の二人の女性は、共に早くに亡くなってしまったのです。
このように、公家から輿入れした二人の女性が早逝したことで、将軍家は公家出身の女性を将軍家定の正室にすることに関して、一種の拒否反応のようなものが出来たと考えられます。
 非常に異例なことではありながら、将軍家が陪臣である武家の島津家に対して、縁談の申し入れを行なったのには、このような事情と理由があったのです。

 また、なぜ将軍家は武家の中でも島津家をその縁談相手として選んだのでしょうか。それには次のような理由があります。

 先代11代将軍・徳川家斉の正室であった茂姫(後の廣大院)は、25代薩摩藩主・島津重豪(しげひで。斉彬の曽祖父)の二女であり、当時この茂姫の血筋を引く者達が、大名家の藩主や正室などに数多く存在し、その血筋が非常に繁栄していたからです。

 芳氏の著書『島津斉彬』によると、茂姫の血筋を引いた者で、当時藩主になっていた者が五人、また、藩主の正室になっていた女性が当時十人も居り、いずれの人々も存命で、かつ健康的な人物でした。

 つまり、徳川将軍家は、家定が二度も妻と死に別れるような異例の事態となったため、虚弱体質な公家出身の娘ではなく、健康面で優れた血筋を持つ武家の娘を縁談の相手として考え、当時血筋が非常に繁栄していた廣大院茂姫の出身である島津家に注目したというわけです。

 このような理由と経緯があり、将軍家から島津家に縁談話が持ち込まれたのですが、嘉永3(1850)年6月当時と言うと、家定の父である第12代将軍・徳川家慶はまだ存命で、家定はまだ将軍世子であった時代です。

また、島津斉彬もまだ藩主にはなっていません。斉彬が藩主に就任するのは、翌嘉永4(1851)年2月2日になってからのことです。

 つまり、将軍家から島津家へ縁談が持ち込まれた時期には、家定はまだ将軍では無かったため、当然「将軍継嗣問題」も生じているわけもなく、また、「将軍継嗣問題」を機に政略結婚を考えついたとされている斉彬自身も、未だ藩主には就任していないような状況であったのです。

 このような状況から考え合わせると、通説に言われるように、斉彬が将軍継嗣問題のために、篤姫を将軍家に輿入れさせることを発案したのではないと言えましょう。

 つまり、斉彬は、将軍継嗣問題が生じてから、篤姫を家定の正室に送り込もうと考えたのではなく、元々将軍家から島津家に縁談話があったことを前提に、後に将軍継嗣問題が問題化してくると、その縁談話と継嗣問題を絡めて考えるようになり、将軍家との縁組みを逆に利用しようとしたということが、本当のところのようです。

続く