黒田官兵衛・黒田清隆子孫  | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

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AIR PAVILION MUSIC AGENCY
代表取締役社長

Royal Escort Grand Prix
名誉会長

MR. & MS. RUNWAY MODEL UNIVERSE
インターナショナルディレクター

内藤 飛鳥

黒田如水(黒田官兵衛)
くろだ じょすい

*武家の饗応料理の会 殿様の会

*黒田官兵衛・黒田清隆子孫 

黒田清久氏をお迎えして 
敬愛致します緋宮先生の講演と饗応の会にお邪魔致しました。
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清久氏と名刺交換させていただいた時に
同じく藤紋で話に華が咲きました。
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黒田家の家紋は黒田藤。【藤原長政系】
※三つ藤巴や軸付き三つ藤巴に非常に似ているので、良く見ないと間違えてしまいます。
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内藤家は【藤原秀郷系】の子孫で
家紋が下がり藤です。
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黒田氏の名言の前に私、
内藤飛鳥のご先祖様の説明

藤原秀郷。
平安時代中期に活躍した伝説のイケメン武将。
通称:俵藤太(たわら の とうた)
伝説の将軍(英雄)、ドラゴンナイト。
世界最強のイケメンギタリストハーマン・リの尊敬する人物でもあり、
イギリスの多国籍軍「ドラゴンフォース」のドラゴンはこのイケメンが由来です。
ファイアーエムブレムシリーズに登場してくるD(ドラゴン)ナイトのモデルはこの伝説のイケメンです。

兎に角、高身長で武術の長けた美形が
先祖のルーツを聴くと、
無意識に配偶者に運動神経の良い高身長のイケメンを選んでしまっていたのも妙に納得します。
私の遺伝子、血が美形を欲しがるのかも知れません。
話逸れました…>_<…
ごめんなさい。

戻ります。

『寛永諸家系図伝』によると、
近江国に勢力を持った源氏一族・佐々木氏(京極氏)の分家筋である黒田氏の流れであると紹介しています。
近江黒田氏を福岡藩主黒田氏に結びつけるこの説は近世の頃から疑問視する向きがあります。
黒田長政が日光東照宮に寄進した石の鳥居には「黒田筑前守藤原長政」と名前が掘り込まれています。
長政が本性を藤原としていたことが分かり、家紋が藤原氏の使用する藤の紋を取り入れた黒田藤巴紋であることも整合性がとれます。

旧幕臣榎本武揚と
新政府軍黒田 清隆・五稜郭についても
説明してくださいました。

黒田官兵衛氏は
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
若年から小寺氏の家老として卓越した戦略眼で諸豪族に恐れられ、豊臣秀吉の側近・軍師として天下統一に大きく貢献しました。

全体の司令官である秀吉から、現地(地方)の指揮権すべてを任された有能な司令官であったとされています。
実際に秀吉の九州遠征では、毛利家との参戦交渉、兵員の配置、軍事拠点の構築、海上ルートの確保など、現地のさまざまな分野を統括する司令官として大きな活躍をしたことが記録されています。
官兵衛氏は家康に対して逐一軍事情報を報告して判断を仰ぎ、慎重な行動を取っていました。
自身の軍事行動を家康に明確に示すことで、疑われることを避けたいたのです。
技ありですね。

関ヶ原の戦いでの勝者をあわよくば討つために、九州から出陣したような演出をしばしされがちですが、
官兵衛氏自身は、敵にあたる大友義統の討伐をしろという家康の命に従い出陣しただけであり、その後は家康の停戦命令に忠実に従っています。

また、関ケ原の戦いが始まる前には、
官兵衛氏息子と共に、石田三成に味方する可能性のあった吉川広家に対して、
寝返るように工作を行なっていたことが複数の書状から伺えます。

徳川の重臣である井伊直政からの書状でも、「たびたび官兵衛から指示を頂いている。
もし何か用があれば申し付けてほしい」という表現があり、いかに家康と官兵衛が緊密な関係であることが示されています。

実に頭脳明晰な武将だったかと思われます。

隠居後は息子・長政に支えられ、穏やかに過ごします。

慶長9年3月20日、京都伏見藩邸にて死去。享年59歳。
そんは黒田官兵衛氏の言葉があります。

その職にふさわしくない者はすぐに処分したりするが、よく考えてみると、その役を十分に務めてくれるだろうと見たのはその主だ。目利き違いなのだから、主の罪は臣下よりもなお重い。

部下の失敗に目を向けることは間違っているばかりか無責任で、任命した上司に責任がある。という意味です。

羽柴秀吉の天下取りを支えた戦国時代の軍師。秀吉、徳川家康から強い信頼を得ると同時に、「天下を取れる男」として、警戒されていた黒田官兵衛の名言です。 職場に対する不満で、上司に対する不満をあげる人は多いと思います。

厄介なことを部下に押し付ける人たちが、最終的には生き残って経営幹部になっている場合です。多忙を極める中間管理職に対して、経営幹部が一方的に仕事を丸投げしていて、その地位に相応した仕事をしていないのではないのでしょうか。

さらに人事権がある場合は、その人が行う人事評価がフェアでないことがあり、それが原因で人事異動後に組織の業績が下がることがあります。問題が起こっても、責任を取ろうとしない。自分の評価ばかり考える人もいます。手柄は取られ、責任は取らされるなど、そういった会社で働いていると上司の指示に納得できないことがあります。

責任を取らない上司への対処法は、まず指示に従わないと上司からの評判が悪くなって、ますます働きにくい環境になりますので、じっと耐えて指示に従うか、上司を降格させるために自分の力を上げるか、上司の上司に助け舟を出してもらえるような状況を自分で作るしかないかもしれません。

そのときには「この上司が嫌い」とか、余計なことを言わないことです。 不条理な環境に身をおいているのなら、受身の気持ちでストレスをためるより、現実に向き合って積極的にこの現状を変えましょう。

そうすることにより、人間的成長もめまぐるしいものがあります。そういう経験を積んできた人が、理想の上司になれると思います。

おまえは時々、部下を夏の火鉢やひでりの雨傘にしている。改めよ。

人には得手不得手があります。部下の強みや能力をどれくらい認識しているでしょうか。そして、能力が発揮できるように適材適所の仕事を提供していますでしょうか。仕事の組み合わせが適切だと、成果を挙げることができます。色々な個性を持つ人達の能力を引き出すことは、時間を存分に使って取り組む価値があります。

官兵衛は息子である長政に、人を使う基本を教えています。

「適材適所、あるいはその人間が持っている能力をうまく使っていないということだ。

夏の火鉢が役に立つか。あるいは日が照っている時の雨傘が役に立つか。

おまえは、部下の能力を見抜けず、また適性がどこにあるかもよく考えない。

そのために、部下に随分と無駄な労力を費やせることが多い。

それを私は夏の火鉢やひでりの雨傘だといったのだ。心得よ」

仕事で成果を出すために、大きく影響するのは、人の能力をその仕事で最高に発揮させることができるかどうかです。そこで大切なことは、仕事と人材には必ずギャップがありますので、上司が部下と一緒に仕事をしながら能力を把握することです。人の能力はそれぞれ違うため、外からでは能力を把握することが難しいことが理由です。

ある程度の成功や失敗を積み重ね、業務経験を積むことにより、適所が見えてきます。力を育てる時期だと思うのであれば、成長を忍耐強く待つしかありません。

使えないからといって、業務から外す上司もいますが、それは自分には育てる能力がないと言っているようなものです。

自分の意にそぐわないから外すのではなく、部下の気持ちを動かしながら育て、活躍の場を作ってあげることが上司の采配です。

へし切り長谷部いう名刀があります。
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織田信長が茶坊主の無礼に激怒して追いかけ、棚の下に隠れた茶坊主をその隠れた棚ごと圧し切って(つまり押し切って)しまったと言う、

少し血生臭いエピソードから名付けられた名刀です。

のちに羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣と成った若き日の小寺官兵衛(のちの黒田官兵衛)に信長が授けたと言われ、

黒田家伝来の名刀として現代まで伝わっています。

世の中色々な上司がいます。

鳴かぬなら殺してしまえ、、、。

鳴かぬなら鳴くまで待とう、、、。

鳴かぬなら鳴かせてみせよう、、、。

私は気長なので、鳴くまで待つタイプです。

結果的に生き残って天下を獲ったのは家康公ですね。

歴史から様々な物語を学びます。

 黒田家は、目薬屋で財をなし小寺政職と言う、播磨(姫路)の大名に仕える家老でしたが、黒田官兵衛は、優れた知略と戦術によって、敵対した赤松政秀や毛利勢からの攻撃も、少ない兵力でも果敢に撃退するなど頭角を現しました。
 しかし、織田信長や豊臣秀吉と言った優れた能力と実力の持ち主が姫路に迫ると、敵の武将を素直に評価し、無償で自分の居城・姫路城をそっくり提供するなどして全面協力し、織田信長の臣下となると竹中半兵衛や蜂須賀小六らと豊臣秀吉の「軍師」として、兵糧攻めや水攻めの立案もし活躍しました。

 明智光秀による本能寺の変で、織田信長が亡くなると、豊臣秀吉に天下を取るチャンスだとして、毛利輝元と和睦して中国大返しを成功させ、三法師擁立の清洲会議後に柴田勝家を敗り、また、毛利輝元と宇喜多直家の和平交渉を成功させ、実質的に豊臣臣下に加えるなど外交面でも手腕を発揮し、豊臣秀吉を大きく助けました。
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 やがて豊臣秀吉が亡くなり、前田利家も死去すると、天下の実力者は徳川家康と見て接近し、石田三成と敵対すると、関ヶ原の戦い直前には、大名の妻子を人質に取ろうとし、細川ガラシャが自害すると言う事件も起こりますが、正室・光姫と、黒田長政の正室・栄姫は栗山善助・母里太兵衛らの策で脱出させる事に成功。
 
 関ヶ原の戦いでは、黒田長政が黒田勢を率いて、西軍の小早川秀秋や吉川広家などを調略して東軍に寝返らせるなどし、徳川家康から「一番の功労者」と称されました。

信長

秀吉

家康

三大武将全てに信頼を置かれながらも、

頭脳明晰故に恐れられた黒田官兵衛氏。

実に興味深い武将だと思います。そんな黒田官兵衛氏の直系の方と歴史のお話が出来て、私は非常に幸せでした。
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