先日、神奈川大学俳句大賞の表彰式に参加してきた。

内容はシンポジウム「俳句にとって自然とは何か」と授賞式、レセプション

高校生が俳句界の有名な先生方に直接お会いできるなんて滅多にないので緊張した。
先生にサインをしていただいた感動は、受験に勝るとも劣らないもので、これは一生の宝物にする。


「俳句にとって自然(nature)とは何か」というテーマだが、これは僕が気になっていたことの一つだ。

通常、俳句というものは我々が季語に触れ、それを感じ取ったときに17文字で表現するものであり、そうして自然(こっちはwithout realizing it の方ね)に出来上がったものがまっとうな俳句であるべきだ

というのが僕の持論である。

何を当たり前のことを、と思うだろうが僕の作句のスタイルはまず誰かから季題を選んでもらって、そこからその季語にじかに触れる、ないときは写真を探してみる、というものになってしまう。

難しい季語、動植物でも生活関連でもなんでも日常生活でなかなか出会う機会のない季語はどうしても頭の中で想像で作ってしまう。


都会育ちということも加えて、僕の持論では、よい句はなじみのある季語でしかできないということになる。



だからこのシンポジウムの結論はどうせ「もっと自然(nature)に目をむけよう!」

だと思っていた。

違った。



虚子は「花鳥諷詠ということは四季風詠ということである。春夏秋冬の現象つまり自然および「人事」を風詠することである。」と言っている。


シンポジウムの司会の先生はこれを引用したり、パネラーの先生方の句をとりあげたりして俳句に「人との関わりを盛り込むこと」の重要性を主張した。


これは理解できる。僕にとって自分もしくは他人の存在しない句を作ろうとしたら17文字が長すぎると感じる。


とすると今度は季語の持つ特性と人間の行動をどう結び付けるかがミソ、というわけだ。



なにも技巧だけにこだわるのではない。それは下手をすればこじつけや独りよがりになる。

まずは季語を通して自分の心から湧き上がる純粋な感情をつかみ


それを人間の描写に置き換え(意識的にせよ無意識的にせよ)


季語とマッチさせるのに一番いい方法にする


その方針が一番いいのではないか


季語が先か、他が先かは難しい問題で、ケースバイケースなのかもしれない。



これからどんな句風にしていくのか(なるのか)

それが少し見えた気がしたし、一方で霧の中にいる

そんなシンポジウムだった。


…この記事面白がる人いるのかな。