前記事では額田王が四万温泉に行ったところまで書きました。

莫囂隣之 大相七兄爪謁気 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本


莫囂円隣之 大相七兄爪謁気 
牧入りの   大穴津湯気(しぶき)

吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
我が子が 真っ直ぐに立つ 梅の木の本

牧入りとは山の奥に行くことです。

山の奥のとは?
牧場?
薪ひろい?
柴刈り?

全て正解です。
牧=薪=柴→これ全て隠語です。

でも、これだと焚き木拾いになってしまいますね。

おじいさんが山に柴刈りに❌
武士が牧狩りに(猟)❌

牧とは巻物で反物のことです。


額田王は群馬県四万温泉近くの山に反物の原料を見に行ったのです。

反物の原料は主に綿です。
東日本は繊維産業の一大生産地だったのです
綿、絹、青麻、麻全てを生産していました。
そして染色、機織りをして布地をつくっていたのです。
記紀で一番隠したいのはその部分でしょう。

長野県の蓼科の蓼(たで)は藍の原料です。

貝紫で染めた着物を着た額田王は木綿栽培地を見に行っていたのです。

莫囂圓隣之=牧入り野
わざと訳さなかったのだと確信できます。

 日本に初めて綿が伝来したのは8世紀末とされています。その根拠は、『類聚国史』にあります。そこには延暦18年(799年)に、崑崙人が三河国に漂着して綿種を伝え、その翌年に朝廷は綿の種子を紀伊などの国々に配り、試植させたことが記されています。
 『類聚国史』とは、編年体である六国史(日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)の記載を中国の類書にならい分類再編集したもので、菅原道真の編纂により、892年(寛平4年)に完成・成立した歴史書です。史料価値は高く、これが日本に綿が伝来した最初とされています。

上記の記事は嘘です。

東日本では綿は縄文時代からずっと作られていました。
絹、青麻、麻も、同様です。
縄文時代は3系統民族が住んでいました。
縄文(北方民族)、ミャオ族、ドラヴィダ系族です。
ドラヴィダ系民はインドから繊維産業を持ち込みました。

そのことを誤魔化す為に嘘の歴史を捏造しました。
繊維産業に限ったことではありませんが、一番わかりやすいのでこれからも直々取り上げていきたいと思います。







【二十亀甲剣花菱】

綿の実の間には刺があります。
綿摘みはこの刺に気を付けないと痛い思いをします。
この剣花菱紋は綿の花をデザインしているのでしょう。
刺の部分を剣にしています。


【右離れ立葵】

この紋も綿を表しています。
綿の花と立葵の花はそっくりです。



(立葵)



(綿の花)

同じアオイ科の花ですから似ているのは当然です。

韓国の国家 ムクゲ もアオイ科の花です。


(ムクゲ)

徳川の葵紋。

全てが綿栽培と関連しているのです。


莫囂隣之 大相七兄爪謁気 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本

この歌には綿の秘密が隠されていたのです。

そして、もう一つ別なことが隠されています。

五可新何本
厳橿の本

崇神朝(紀元前140〜紀元前30)に笠縫村にあった神霊の神木厳橿の本

笠縫神社
(奈良県磯城郡田原本町秦荘、秦楽寺境内南東隅)


元伊勢と呼ばれる神社の一つ。

群馬県中条町にあった厳橿の本がどうして奈良県にあるのでしょうか?

崇神天皇のいた時代はかなり曖昧なようです。
3世紀後半ごろに実在した大王と推定されるが、定かではないらしいです。

厳橿の本については次ブログで。