カウンセリングの相談の一つに死んだ方の事を聞かれることがあります。


何かメッセージありませんか?


亡くなると人は仏にはなりますけど仏様にはなりません。


死とは、遠い世界の出来事のように思っているでしょうけれどすぐそこにあるのです。


とても身近なもの。


ですから亡くなったばかりの方は余裕がないのです。


あれ、いつもと違う、話しかけても通じない。


死んだと言うことに気付くまで時間がかかります。


よしんば、気付いていても認めたくない、家族と違う世界にいることを信じたくないのです。


ですから仏様にはならない方が多いです。


生きてきた時の性格が、霊格と言う感じです。


短い時間で死を理解する方は、あの世や死に対しての知識があったのです。


どんなに時間が経っても認めたがらない困った人?が多いのも事実です。


追善供養とは、そのためにあるのではないでしょうか。


初七日、35日、49日、75日、90日、一年、3年、7年・・・・


生者と死者を少しずつ分けていく儀式ですね。


死者の気持ちが落ち着いて、周りを見渡した時に見えてくる景色があります。


やっと、生きていた世界に未練がなくなります。


肉体を脱いだ世界の知識をたくさん持って旅立ちたいものです。


知識がなければ迷ってしまい、どこに行ったらわからないので家族の元にいるしかありません。


でも、肉体のない者の居場所ではありません。


見守ってくれる先祖は、生きている時から見守ってくれるような人格なのです。


家族だけじゃなく誰にも優しい人格者だったのです。


生き方そのものが死に方であり、あの世に行ってからの悟り方です。


私たちは、必ず肉体を脱ぐ日が来ます。


死は、恐いものでも縁起の悪い事でなもなく一つの通過点です。


生きている方たちとのお別れはつらいですがその時は、慌てず騒がず受け入れなければなりません。




父の死に立ち会い、死んだ父と会話をした時に死んだんだよ、と随分言いました。


父は理解してくれやようでしたが、母が心配で中々立ち去ろうとはしませんでした。


母が元気になるのを待っていたのです。


三年位して「俺、もう行くよ」と母にメッセージを残して自分の行くべき場所に旅立ちました。


子供とは違う絆があったのだと思いました。



それから父の気配は消えました。


あれから二十数年たち父の夢を見る事さえありません。


きっと違う場所に生まれ変わっているのだと思います。