添付の写真は我が家の庭に現れた蝶で、初めて見るものだった。羽の形が不完全だが、調べてみると「シジミチョウ」の一種で、「ウラギンシジミ」のメスらしい。オスは茶羽にオレンジ紋様なので、オスとメスとは全く違う色合いなのも面白い。
虫嫌いの人には恐縮だが私は幼少期からの虫好きで、小学低学年のころ部屋に草を敷き詰めて、バッタを室内で放し飼いにして叱られたという逸話が我が家に残っている。小学生の頃の愛読書は『ファーブル昆虫記』で、昆虫学者に憧れていた少年だった。
蝶に話を戻すが、蝶(昆虫全般)の目は紫外線を見ることができるらしい。人間にはオスとメスが同じ羽色に見える蝶でも、紫外線で見ると全く違っており、蝶はそれで雄雌を識別しているというのだ。何より驚くのは、花の蜜がある場所が、紫外線で見るとわかるということだ。つまり蝶は、自分にとって最も重要で必要なものを見ることができるということだ。
ひるがえって人間はどうだろう、大切なものを見て取ることができるだろうか?いま取り組んでいる訪問看護でも、苦労するのが利用者の本音が見えないという点にある。特に死が視野に入ると人は複雑な精神心理状態になり、家族であっても気持ちを分かち合えなくなってくる。アメリカの精神科医のキューブラー・ロス(1926~2004)の、死の受容過程5段階(否認⇒怒り⇒取引⇒抑うつ⇒受容)のように、こころが正にまだらになってくる。
誰しも死をすんなりと受け入れることなどできない。ホスピスボランティアをしていた頃に交流のあった、『がん患者学』の著者の柳原和子さん(1950~2008)も、「治らないとわかっていても、あわよくば奇跡が起こって元に戻ることを期待してしまう」と何度もおっしゃっていた。深刻な病の中での切ない生へのあがきともいえる精神状態は、本人以外の誰であっても分かち合うことはできない。死は誰にでも訪れる公平なものとはいえ、とことん孤独で厳しいものだ。
訪問看護でそのような利用者に出会ったとき、その方が口では強がっていてもけしてそうではないことを思いやり、表面上の言葉の奥を必死に探る過程が始まる。その方が、時として医療者としては認めがたい選択を押し通そうとするときも、通り一遍の「べき論」をいったん飲み込み、そうならざるを得ない人間に寄り添うことを鍛えられる。
寄り添う対象は利用者本人だけではない。その家族の心も揺れ動き、時に良かれと思う愛情が利用者本人をも傷つける。もちろん愛情ゆえのことだが、家族も迷いの中にあり、関わる全ての人の「思いのるつぼ」の中に入っていくのが訪問看護だ。
蝶のように、知りたい対象が見えれば楽かもしれない。蜜のありかのように、その人の本音の部分が見通せたら楽かもしれない。蜜は動かないが人の心は常に変わるので、見えても消えてしまうかもしれない。蝶を眺めながらそんなことを考えてしまった。
(事務長 松本克弘)