「良心は中身だ。正しいことも中味だ。」

 

 講演で胡桃沢伸氏は、何回も「言葉はなれ合って使うものではない」と、同じ事象についてもどんな言葉で表現するか、について述べた。

 

「満蒙開拓団」:時の政府が「開拓団」と称したが、実際は「開拓」ではなく、中国東北部に住む人々が耕していた土地を奪い、住んでいた住居から人々を追い出して住んでいた。現地の人々は、耕地と家を奪われ、とても作物を作れないような土地に仮住まいの家を建て暮らし続けた。

 

「集団自決」:自決ではない。集団死だ。

 自決とは、広辞苑によると①自ら決断して自分の生命を絶つこと。②他人の指図を受けず自分で自分のことを決めること。

 ソ連の侵攻を受けたとき、「開拓団」に残っていたのは、老人、子供、女性であった。幼い子供も死んでいった。生きることがかなわないからやむを得ずお互いに殺しあった。子供は互いに相手の首を絞めることができず、やむを得ず石で頭を殴りあった。河野村開拓団のただ一人の生き残り戻ってきた男性の額の傷は、その時のものだったという。

 

 「満蒙開拓団」は、当時の農村の疲弊から脱するために、農林省の「経済厚生指定市町村」事業(1932年)の一つとして、農業経営を改善するために黒字農家と過剰農家に分けて、過剰農家とされた農民の土地を黒字農家に譲り、過剰農家を中国東北部に移民させるというものであった。つまり貧乏な農民はこの土地から出て行けとも受け取れる政策であった。

 

 「満蒙開拓団」の第一次、第二次試験移民は武装していた。男子だけであったので、中国でその土地に人々とのトラブル、強姦など多発したという。

 

 1936年に盧溝橋事件を起こし日中戦争に。

 1937年に南京大虐殺(南京事件) ※ 南京は中華民国の首都

 1938年には重慶の無差別爆撃。焼夷弾も使い、民間に人々が住む地域を火の海にした。本土空襲で米軍が木造家屋の多い日本の空爆で焼夷弾を使う前に、日本軍が世界で初めて無差別爆撃を行った。

 

 長野県の村長たちが満州に視察に行ったのは、この1938年。

 胡桃沢盛氏(村長)は、満州を自分の眼で見て「いい村」と表現している。村民が移住するにはいい村(耕地に恵まれている)と。

 

 この言葉に対して、孫の伸氏は「村民のことは考えているが、収奪される中国の人々のことは考えていない。植民地主義だ。」と。

 

 同じ視察団の別の村の村長は、日本人の中国の人々に対する態度を見たり、日本が中国の人々の土地を奪っていることに気づき、分村移民を引き延ばして敗戦の8/15を迎えるに至った。

 

 同じ年 1938年に賀川豊彦も満州に招かれ視察を行い、その後の1941年に73世帯205人をキリスト教開拓団として満州に送り出している。それも農業経験のないものを「勇敢に参加させる」と鼓舞して。

 (あの賀川豊彦も)

 

 農本主義者の加藤完治は、前年の1937年に「青少年義勇隊」の編成を国に提起していたそう。戦後も「満蒙開拓団」について反省することなく、現在でも加藤完治が創設した農業学校には加藤の銅像があり、学校紹介のビデオには創設者が満蒙開拓団と関係が深かったことには全く触れていない。

 

 

 胡桃沢伸氏が「良心も正しいことも中味だ」という言葉を、講演後ずっと考えている。

 

 戦前と違い、現代に生きているものは、知ろうとする努力で情報に行きつくことができる。生まれて義務教育を卒業するまでに15年がかかると同じ年月、日本は戦争をし続けた。誰もかれも「負けた」と思えるほどひどい状況になってやっと敗戦。

 

 多くの知識人も、この長い戦争の期間に、特に日米開戦後は戦争に協力した。

 

 私たちは、私は、アジアの人々が二千万人以上犠牲になったあの戦争からしっかり学ぶことができるだろうか。

 

 美しい日本とは、日本列島という地震をはじめ自然災害が多い国で、何度も何度も災害で苦しみながらもこの地で生き続けた人々が作り上げたもの。他の国や他の国に住む人を痛みつける道具ではない。