仕事に追い掛け回されることがなくなって、掃除や調理、ゴミ出しなどの毎日のルーチンを段々こなせるようになって、いちいち考えなくてもすらすらできるようになったせいか、何十年も前の思い出がついさっき起こったことのように思い出される、それも順不同で。認知症の方が、現在の時間から自由になって過去を縦横無尽に行き来しているかのよう。

 

 青年期のころより、我が家は虐待家族、機能不全家庭だと思っていた。自分に起こる様々なことも、育ちの過程から引き起こされているのだと。自分をこれ以上傷つけないために、自分以外にその理由を求めていたほうが少し心は軽くなる。私もきっとそうだったはず。問題を抱えたままの自分がだれかと家庭を作り上げるなんて無理だと思っていた。そういう私と他の兄姉は違っていて次兄を除き皆20代前半で結婚し家庭を持ち子供をもうけている。一度離婚した次兄も再婚したいという。同じ家に育ってたのにこんなにも人間関係について考えが異なる。私は鼻から自分を信頼していない。自分が傷ついたと同じことを他者にして、他人を傷つける可能性を思うと誰かの人生の片棒を担ぐなんて恐ろしいことをしようとは思わない。

 

 職場も学校も地域もたった一人で生きて行けるとは思っていないが24時間365日誰かと同じ空間を過ごすなんてとても無理。集団生活が苦手で、一人の時間がないとどうかなりそうで、中年過ぎまで電車でも職場でも本を手にして他の人との交流を拒絶していた。世間話やよもやま話が苦手で。

 

 家出をしたいと思った小学校二年生の時、ちょっと考えるだけでご飯を食べたり住むお家をどうするのか、自分ではどうすることもできないと気が付き家出をあきらめた。自分で稼げるようになるまで我慢するしかないと。おっちょこちょいなのに妙にリアリストのところがあって身の安全を気にしてしまう。自活なんて言葉は最近とんと聞かれないが、わたしの夢は豊かな生活でも豪華な宝石でもなくただひとつ自活すること。

 

 地方の山村でも受験戦争の波が押し寄せてきて小学生でも塾に通ったり家庭教師に勉強を教えてもらったりする子も少しはいて、「トウダイ」に入り医者になりたいという。「トウダイ」ってどんなに凄いところかと、姉に「トウダイ」ってどこと訊くと、東京大学のことだという。教科書の裏表紙の執筆者の欄に東京大学卒とか、東京大学の教授とか書いてあるあの東京大学のことかときいてガッカリした。東京にある大学だから東京大学なのかと思い、埼玉にあるので埼玉大学と呼ばれると同じことだと勘違い。あの頃の私はまだ大学に国立や私立があり、学力試験でわかる偏差値で入れる大学の見当がつくなんてことも知らなかったから。

 

 祖母は初婚で子どもがいる派手好きな押しの強い男(祖父)、母は最初の夫が戦死して実家に戻り再婚で父みたいな暴力男と一緒になり、どちらも苦労三昧。いい人を見つけて結婚することが夢だと堂々と言う女子もいたけれど、結婚で夢のような生活ができるなんてとても思えず。自分の食い扶持は自分で稼ぎ自由に暮らす、誰かに頼って暮らすなんてとんでもない。自分の姉二人がまさか主婦になる道を選ぶとは信じられず。

 

 実家に帰ったり身内の催し物があると、必ず誰彼構わず「結婚」という二文字が私を攻め立てた。家族や親戚を前にしてなぜ結婚しないかなどという説明をして理解されるとは思わず、「仕事が立て込んでいてとてもそういう余裕はないの」とかありていの言い訳でごまかしていたが、何回も、見合いが不意打ちにように設定されたりして、申し訳ないが有難迷惑。

 

 二三十年前までの日本では、老後は子供と一緒に暮らし面倒を見てもらうものと信じ込んでいた人が多かったのかもしれない。母も姑を看取り父を送り、母自身が80を過ぎ脳梗塞から認知症が徐々に進みかけたとき子供たちの世話にならざるを得ないと覚悟した時、子供五人を目の前にして襟を正して敬語で「これからは皆さまのお世話になります、よろしくお願いいたします」と真顔で挨拶をした。子供たちと同じ空間にいるのがつらいようで、ちょっと畑に行ってくると鍬をもって畑に出ていく。少し暗くなっても母が戻らず「おかぁちゃん、どうしたんだろう」と畑に迎えに行くと母が倒れていて、二回目の脳梗塞の発作だった。

 

 段差が幾重にもある古い農家で母が暮らせなくなり、施設に入所。ある時から、食欲がなくなりだされたご飯をほんの数口しか食べなくなったという。長姉が見舞いに行ったときちょうど食事時間で、介護者から無理やりご飯を口に入れられ、母はただ声を出さずに涙を流していたという。それから間もなく、ショック状態で病院に入院し、腸間膜動脈というおなかの動脈が閉塞したことで食欲がなくなったり意識状態が悪化したと。

 慌てて病院に駆けつけたときには、すでに呼吸器がつけられ、しかも自発呼吸があることで呼吸器と母の呼吸が合わず、見ていられないような苦しさ。兄弟姉妹で母のそばにいたけれど、「これ以上、お母ちゃんは苦しまなくていいよね、もう十分がんばったもの」、無言のうちにみんながそういう思いになっていた。

 

 母と私との関係を思い起こすと、父と違って感情を高ぶらせることもがなく手を振り上げたこともない。台所仕事や洗濯などの家事をしながら鼻歌を口ずさみ、台所から包丁の音と母の歌声が聞こえてくるとなんだか元気になり、母の顔を早く見たくなる。学校から帰ってくるとみんなが母の周りに集まりがやがやおしゃべりをしながら笑い声を立てていたり。

 

 朝早くから晩まで、夕食後も繕い物とか翌日のご飯の準備とか、忙しく働き続けていた。さすがに五十を過ぎると夕食後横になって休む姿を見るようになったが、子供たちに愚痴をこぼしたり、あれこれと命令することもなかった。父がうるさすぎたから、母までうるさくなることを控えていたんだろうけど。母は父に怒鳴られたりしても、「ごめんなさい」とか「許してください」なんて一言も発していなかったことを、つい最近思い出した。

 

 私はずっと我が家は機能不全家族だと思い込んでいたけれど、そういう面があったことは事実だが、母や兄姉のことを思うと、そうではないかもしれないと思うようになってきた。父の暴力があり虐待を受けたこともあり、私自身はその恐怖に支配されていた。母はどうだったんだろうか。私から見ただけでも、全人格を父に支配されていたとは思えない。男と女という違い、夫と妻という立場、でも母は自分の信念を捨てはせず持ち続けていたのではないか。