亡父の口癖は、「命を大事にしろ」「不幸せにならないでほしい」というこの二つであった。

 なぜこのような事柄に思い至ったのか、父親の本心を聞きただすことなく、父は10年以上前に旅立ってしまった。

 

 私は5人兄弟姉妹の末っ子で、父が50歳、母が40歳の時の子供だ。明治生まれの父は、幼い時に母親を失い(結核)、実母の妹がのち添えとして義母となった。祖父は一攫千金を狙って東京で商売をいくつも試み、田舎の家は義母とその子供が残され、父親は祖父に連れられ東京で暮らしたという。父が高等小学校を卒業する年に祖父がなくなり、長男である父は家を守る責任を一身に追うことになった。叔母とはいえ義母と一緒に暮らした期間が少なく遠く離れていることもあり、義母が東京に住む長男の身の回りの世話をすることもできず、父は東京で一人東京でいろいろな苦労をしたようだ。

 父は逓信省でモールス信号を扱う職を得て、その資格を生かして外国航路の船員になったが、結核を発病して田舎に帰ってきた。第二次世界大戦の末期、国内での軍需物質の輸送を担うために徴用され瀬戸内海の輸送船の任務について、敗戦になり再び帰郷したが、すでに長男、長女を得て狭い畑で家族を養うこともできず、東京に出稼ぎに出たが、結核を患い私が3歳の時に排菌するほどの結核が進行たために三度帰郷することになり結核療養所に入院となった。。

 早くに二親を亡くし、自らも結核で療養することになったことが、「命を大事にしろ」につながるのか。「不幸せにならないでほしい」は、若くして子供を残した実母を思いやってのことなのか、もう詳しいことはわからない。

 

 色々な苦労を重ねてきた人だが、激高しやすく気分が目まぐるしく変わり、自分自身のいら立ちゆえか、祖母や母に暴力をふるい、私にとっては「近づきたくない怖い人」であった。上京していたり、療養所に入院していたこともあり、知らないとしとったおじさんのような存在でもあった。がみがみ怒り散らすだけでなく、何か文句を言いだすと一言では済まない。夜中に心配事を思いつくと家族を起こして延々と話し続けるとか、子供に対して困りごとに気が付くと、夜中に母に起こさせて板の間に正座させてこれまた父自身の気持ちが落ち着くまで話し続けるのであった。雑巾の干し方が間違っていると殴られ、小学校五年生になると父から英語を教わるのだけれど、前日に習ったことを覚えていないとほほを殴られ、幼いころの父との思い出の多くは、嫌なことばかりなのだが。

 

 かといって365日、そんな父ばかりではなく、穏やかで優しい面がなくはないのだが、自分にとっては家族に暴力をふるう怖い人であった。

 

 上の姉や兄たちと同じように、中卒と同時に家を出て働き始めたが、高校生のころから過食や盗みが始まり、二十歳過ぎてから喫煙や飲酒が加わった。どういう経緯でそのような嗜癖行動に至ったか、自分でよくわかっていないのだが、どうしようもなく追い込まれたときに一杯のビールや一本の煙草で少し落ち着けたことは事実で、弱いながらも何とか生き延びてこられたのも、嗜癖行動のおかげかもしれない。

 

 私はずっと、DVの家庭で育ったという一面でしか父をとらえていなかったが、暴力や暴言にさらされてきたことは事実だが、ひょっとしてそれだけではないのかもしれないとふと思うことがある。極端ではあるが、殺されはしなかった、食料を与えられていた、将来を心配し父なりに教育を与えてくれた。ここ数年報道される、幼子が虐待を受けて命を落とす事件を知るにつけ、そんな風に思うこともあるのだが。

 

 父の暴力だけではなく、小学校や中学校時代にいじめにあったこととか、6歳の時に水害にあい家が半壊になったとか、自分にはいろいろなトラウマが重なっているのだが。自分の心を知るということはなかなか道が遠い。