1915年 (大正4年)7月22日 、兵庫県 西宮市 に「高尾みち子」として生まれる[1] 

東京府 東京市 (現在の東京都 )に移り、1921年(大正10年)、父親が衣裳部 を務める日活向島撮影所 に子役として入社する[1] [2] 。同年2月16日に公開されたサイレント映画 『嵐の舞』に出演[2] 、ついで同年6月14日公開、山本嘉一 、女形東猛夫 が主演した『恋の墳墓 』に「高尾道子」の名で出演して、満5歳でスクリーンデビューを果たした。同年5月1日、松竹キネマ (現在の松竹 )が前年に開設した松竹蒲田撮影所 に移籍[2] 、「高尾光子」に改名し、賀古残夢 監督の『月魄』、大久保忠素 監督の『地蔵物語 』等に子役として出演する[1] 

1922年(大正11年)4月1日、旧制・蒲田小学校(現在の大田区立蒲田小学校 )に入学する[2] 。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災 で同撮影所は壊滅、京都にある松竹下加茂撮影所 に同撮影所全体で異動、現代劇 作品に出演した。翌1924年(大正13年)には蒲田が復興し、東京に戻る。牛原虚彦 監督のオムニバス子供の世界 』の第三篇で主演、以降、主演作が増える。1928年(昭和3年)3月、蒲田小学校を卒業、卒業後は横浜の個人英語教授に通う[2] 。舞踊については、沢村紀久八 に師事する[2] 

子役から脱皮し、娘役を演じられるようになると、1933年(昭和8年)10月、松竹下加茂撮影所 に異動し、時代劇 に出演、高田浩吉 や市川右太衛門 の相手役を演じた。

1935年(昭和10年)、松竹を退社してP.C.L.映画製作所 に移籍、トーキー に出演する。同年、イギリス領ビルマ との合作映画で、「ビルマ映画の父」と呼ばれるウー・ニイプ 監督の『にっぽんむすめ 』に出演する[3] 。1937年(昭和12年)7月1日に公開された、滝沢英輔 監督の『東海道は日本晴れ 』に出演したのを最後に、満22歳の誕生日を目前に映画界を引退、同年、東京劇団 に入団して舞台演劇に進出した[1] 

第二次世界大戦 終結後の1955年(昭和30年)、稲垣浩 監督の『旅路 』で、ひさびさに映画界に復帰した。

1980年 (昭和55年)11月26日 、死去した[1] 。満65歳没。