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銚子高校
 (銚子市立銚子高等学校 )卒業後の1953年、東宝 に入社し、大部屋の女優となった。1955年、東映京都 に入社。本名の和田道子で映画「紅孔雀 」「百面童子・四部作」などに出演した。

1957年、新東宝 の社長・大蔵貢 にスカウトされ、同年7月、新東宝に入社。同年、「戦雲アジアの女王」の川島芳子 役で初の主役を演じる。1958年には「天皇・皇后と日清戦争」、1959年は「明治大帝と乃木将軍」で皇后を演じ、皇后女優と呼ばれた。明治天皇役の嵐寛寿郎 が史実より若干年長だったのに対し、史実では40~50代だった昭憲皇后 を20代半ばで演じた。

皇后役のみならず、美貌を誇る新東宝の主演女優として、他の数々の映画にも出演し大活躍したが、大蔵貢との仲がおかしくなる。主役に予定されていた「大学の竜と女王蜂の怒り」を降ろされ、さらにラジオ東京テレビ の2本のテレビドラマ 出演も大蔵のせいでつぶされた。この事でマスコミが殺到。大蔵は記者会見の席上、『「女優を にした」と記事にあるが、女優を妾にしたのではない。妾を女優にしたのだ』と発言して大スキャンダルになる。高倉が皇后女優と呼ばれていたことも非難を増大させたが、そもそも高倉は皇后女優と呼ばれ始めたのちも脱獄囚、女スパイ、女怪盗、有名文学作品のヒロインなどを演じており(当時はそれで特に問題化もしなかった)、新東宝B級路線の象徴的女優であった。結局、高倉は1960年に新東宝を退社してフリーになる。高倉の退社後、すでに危うかった新東宝の経営は更に悪化して、大蔵貢 は退陣に追い込まれ、翌1961年に倒産。

このスキャンダルによってトップ女優としての名声を失ったが、以後もテレビドラマ・映画・舞台に助演で出演を続けた。1964年10月に日本テレビ 出版部長の東昌史と結婚。1969年に引退。家庭の人となった。