nanoの芸能ブログ♪
ピアノ調律師の父を持つ、四人姉妹の三女[1] 。 姉の一人は田原総一朗 夫人でエッセイスト田原節子 である。

さと子が小学校2年生のとき、父の調律師仲間の紹介で「さくら子供会」という合唱団に入る。その後作曲家保田正 に師事し、1949年 ビクター から「動物あそび」でデビュー。大きなリボントレードマーク の愛くるしい姿でたちまち人気者となり、1951年 5月「ひばりと麦笛」、1951年 10月「ママのおひざ」、1952年 3月ディズニーアニメ「バンビ 」をモチーフとした「子鹿のバンビ」など大ヒットを次々飛ばす。朝日放送 「クレハホームソング」で「こけしのちびっこ」を歌い、芸術祭 童謡賞を受賞。

その後女優としても活躍の場を広げ、1954年松竹 と契約し、「あゝ洞爺丸」「お母さんの黒板」「オーケストラの姉妹」などに出演する。「朝やけ雲の決闘」を最後に松竹を退社するが、1971年 に当時東京12チャンネルのディレクター であった田原総一朗が監督 を務める「あらかじめ失われた恋人たちよ 」に出演する。

以後はシャンソン 歌手として、舞台などでライブ 活動をするようになるが、1970年代 半ばごろに歌手活動を休止する。

活動休止からしばらく後、肝臓 を患って入退院を繰り返すようになり、その結果院内感染による慢性肝炎 と宣告された。抗生物質 の効かない重い症状のものであった。具体的にいつ頃からかは不明だが、この後長い療養生活に入ることになる。長田暁二 の著書によると遅くとも1990年代前半からこの状態だったという。

1996年 5月に容体が急変し、入院先の病室で息をひきとった。55歳の若さであった。