広島県 広島市 の中心部・袋町(現・中区 袋町)に薬局の長女として生まれる。県立広島高等女学校(現・広島県立広島皆実高等学校 )に進むが、小夜福子 の宝塚の舞台を見て感激し中退。1937年宝塚音楽学校 に入学。宝塚歌劇団26期生 。同期生に浦島歌女大路三千緒乙羽信子越路吹雪東郷晴子瑠璃豊美 らがいる。1939年宝塚少女歌劇団 声楽専科生として『宝塚花物語』で上記同期生達と共に初舞台を踏む(この初舞台の主演は小夜福子)。以降、その類稀れな美貌で娘役トップスターとなり大活躍。ちなみに、後の映画『満月城の歌合戦 』でも小夜福子と共演。そして、日活移籍第一作となった映画『あした来る人 』でも小夜福子は月丘の母親役を務めている。

1940年 、宝塚歌劇団在団中に宝塚映画 『瞼の戦場』の主演で映画デビュー。1942年大映 映画『新雪 』に大都映画 にいた水島道太郎 と共に主演し大ヒット(主題歌は灰田勝彦 )し映画界でも大スターとなる。1943年 に宝塚歌劇団を退団。その後は大映に入社して、映画女優として活躍。

1947年轟夕起子 に誘われて、轟の夫のマキノ正博 が所長をしていた松竹 京都に移籍。松竹でもトップ女優として活躍。四歳下の妹・月丘千秋も宝塚音楽学校を経て松竹入りしており、映画『地獄の顔』で妹・千秋と共演。

1951年 7月、軽喜劇『東京のお嬢さん』のため渡米。二ヶ月で帰国する予定だったが声楽と舞踊を本格的に学ぶためニューヨーク に残る。当時はまだ海外渡航自由化の遥か前で、大変貴重なニューヨーク滞在となった。ちなみに、月丘はこのニューヨーク 滞在中に、1949年 に日本人初のノーベル賞 を受賞(ノーベル物理学賞 )して、当時コロンビア大学 の教授としてニューヨークに赴任していた湯川秀樹 博士湯川スミ 夫妻に面会している。1952年 4月、渡米前まで同棲していた岩井庄蔵 が独断で入籍し夢路の家を売却し別の女性と行方をくらまし、告訴騒動となる。

1953年 1月2日、第3回 NHK紅白歌合戦 に初出場し、「新雪」を歌唱した(当時の紅白は正月に開催されていた)。映像や音声は現存しないが、月丘の歌唱中の写真や紅組の歌手席に座っている写真が現存する。

1955年 1月、製作を再開したばかりの日活 に移籍。出演料は映画1本に付き200万円で松竹時代の倍となり、当時の日活俳優達の中で最も高額の出演料だった。1957年井上梅次 監督と結婚、井上とは絵美の出生などを挟み2010年2月に死別するまで連れ添った。

しかし、日活がアクション映画に路線変更すると速やかに後輩の石原裕次郎 らにトップスターのバトンを渡し、1959年 にフリーとなる。以後は出産・育児や家庭のため出演数をセーブしながら脇に回り、映画やテレビドラマ、舞台で活躍。

夫・井上とともにジャニー喜多川 と親交があり関連会社の代表を務め、舞台などでジャニーズ事務所 所属のタレントとよく共演したが、1971年 6月 乗り合わせた車が交通事故に逢った際、フロントガラスの破片で顔に深刻な傷跡が残るほどの重傷を負ったことや、近年の自身・梅次の高齢化などもあり往年とちがい活動ペースをセーブしている。

2004年 (平成16年)11月18日に開催された神戸100年映画祭のプレイベントにおいて、ロシア でフィルムが現存していたことが判明してロケ地である兵庫県 神戸市 の神戸文化ホールで映画「新雪」が上映された際に、ゲストとして出席して、トークショウで撮影当時のことを振り返った。

2011年 (平成23年)2月18日に開催された日本アカデミー賞授賞式に会長特別賞を受賞した夫・井上梅次の代理として88歳の元気な姿で娘の井上絵美と共に出席。公の場に姿を現した。