元吉本新喜劇
に在籍していた母(安田密子
)と、パティシエ
兼パン
職人であるフランス人の父をもつハーフ
。パリで出生後、3歳で来日。当初は母の郷里香川県
高松市
で生活していたが[1]
、早期に父の仕事のために兵庫県
神戸市
へ転居。日本とりわけ関西圏での生活が長かったことが(話し言葉
としての)関西弁
常用、宝塚歌劇団
・OSK日本歌劇団
などの関西舞台芸能との接点が人生の進路を決定付けた。
父はかつて神戸市 須磨区 の山陽電鉄 月見山駅 南西の商店街 (現在は都市計画道路 中央幹線が整備・開通のため商店街は存在しない)にパン店「カトリーヌ」を開業。地元住民や近隣の学生からも利用されていたが1995年 1月17日 の阪神・淡路大震災 で店舗は全壊し神戸市 中央区 の元町 商店街に移転した(現在は閉店)。「フランス人が作るパンとケーキの店カトリーヌ」という看板が掲げてあった。
神戸常盤女子高等学校 に在学中、宝塚とOSKの入団試験を受け、1993年 にOSKの団員養成学校である日本歌劇学校 に合格し入学。同期に朝香櫻子 がいる。ちなみに芸名は、自身のファーストネームと母が四国 出身だったので瀬戸内海 にちなんでつけたとのこと。
2年後の1995年 3月の初舞台に向けて諸芸の稽古に努めていたが、一家全員が阪神・淡路大震災 被災。全員一命をとりとめるも、実家のパン店は全壊。人手及び経済的にも最小限で切り盛りしていたこともあり、家業の再建を目指すべく、OSK初舞台の初日付を持って、舞台に立つことなく退団。このエピソードは女性週刊誌でも紹介され、多くの読者から浅からぬ同情や声援を集めた。またこの体験から震災関連の講演会・シンポジウムにも多数出演している。
退団当初は、家族とパン屋再建のために奮闘していたが、日本歌劇学校時代からのダンスの才能と、関西弁の陽気な喋りの才能がマナセプロに着目され、家族を神戸に残し、ひとり上京しデビューする。1997年 より芸能活動を開始、翌年から本格的に活動を開始する。その喋りぶりや物怖じしない言動を生かし、テレビではリポーターなど、バラエティ番組を中心に活動する一方で、舞台でも得意のダンスを生かし、ミュージカル ・軽演劇 ジャンルをメインに芸能活動を続ける。役者の仕事のオファーがなかなか来なかったときに三谷幸喜 から声を掛けられ、以後三谷の作演出の演劇に出演することが多い。その後、母の吉本再デビューなどもあり、父一人でパン屋を切り盛りしていたが、現在は店をたたみ、関西のさる料理・製菓の専門学校に講師として招かれ、後進世代の指導を行っていることを明かした。
2006年 8月、3歳年下のビジネスマンの日本人男性(仕事の都合上カナダ 在住)と結婚していたことと、結婚後も仕事を継続することを発表。 2009年 8月、離婚を発表。同年10月『連続人形活劇 新・三銃士 』で声優に初挑戦。
これまでマナセプロダクション に所属していたが2009年末契約終了、2010年4月1日にサムデイに移籍した。