nanoの芸能ブログ♪
横浜市
金沢区 出身。金沢文庫 すずらん通り商店街にある小田薬局で次男として育つ。横須賀中央のバイオリン 教室に通っていた。実父はすずらん通り商店街の基礎を築き藍綬褒章 を受賞している。

関東学院六浦小学校 、横浜市立八景小学校を経て、1960年 聖光学院 中等部に進学。中学受験のための進学塾で鈴木康博 と出会い、聖光学院では中等部高等部を通じて同級生だった。高等部3年時、学園祭にて小田、鈴木、地主道夫須藤尊史 の4人で演奏を披露、好評を得た。なお、1999年 、聖光学院40周年記念祭にて、小田、地主、須藤の3人が再び集結、当時の演奏ナンバーを披露した。

その後、小田、地主は東北大学 に進学、建築工学を専攻。小田は聖光学院在学時に授業で建築模型 を製作して以来建築に興味を抱いていた。また、小田は千葉大学 医学部を受験しようとも思ったが、大学見学の際に消毒臭・カーテンの汚さに嫌気がさし、東北大学を選んだという。鈴木は東京工業大学 に進学、離ればなれとなったが、仙台と横浜をお互いに頻繁に行き来し、音楽活動も続けていた。後にグループは「ジ・オフ・コース(後のオフコース)」と名付けられた。1969年 、アマチュア音楽活動にけじめをつけるために「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト 」に東北地区より出場。東京でなく東北から出場したのは東京だとレベルが高い、東北のほうが勝ち抜きやすそうだからと考えたためだが、実際に出場してみると東北地区も大変レベルが高かったという。それでも東北地区を1位で通過、全国大会に進出した。全国大会は赤い鳥 、フォー・シンガーズ(財津和夫 のいたグループ)ら強敵がいたが、小田曰く「寝ててもできるくらい」猛練習を重ね、自信をもって臨んだにもかかわらず、1位は赤い鳥、オフコースは2位だった。小田らは優勝して音楽活動にけじめをつけるつもりだったが、2位になったことで「このまま終われない」とプロの道を歩むことを決める[1]

しかし音楽一本に決めた鈴木、音楽をあきらめ建築家に進路を定めた地主に対し、小田は自分の道をまだ定められず、1971年 早稲田大学 大学院 に進学、建築の研究も続ける一方で鈴木との音楽活動も続けていた。その後徐々に気持ちは音楽に傾き、1976年 大学院修了時は完全に音楽の道を選択することを決めていた。修士論文のタイトルは「建築との訣別」(但し、担当教官に「私的建築論」とタイトルを変更させられている)。

オフコースは数度のメンバー変遷を経て1972年 より小田、鈴木の2人構成、後に清水仁大間ジロー松尾一彦 を加えた5人構成となる。数年間は売れない時代が続いたが、やがて、1970年代 から1980年代 にかけて次々とヒット曲を生み出し、時代を代表する人気グループとなった。オフコースが発表したシングル のA面のほとんどは小田の曲であり、そのシンプルで、ストレートに愛を歌う歌詞とハイトーンの澄んだボーカルはオフコースの大きな特色であった。オフコース時代のヒット曲には「さよなら 」「Yes-No 」「君が、嘘を、ついた 」などがある。1982年 にはオフコースのオリジナルメンバーである鈴木康博 の脱退に伴い一度は解散も考えたが、約1年の活動休止を経て4人で活動再開、1989年 まで活動した。オフコース時代の活動の詳細はオフコース の項参照。

1982年 9月3日 、ファンクラブの手伝いをしていた女性と結婚。

1985年松任谷由実財津和夫 との共作でリリースしたシングル「今だから 」がヒット。

1986年 に初めてのソロシングル「1985」、初のソロアルバム『K.ODA 』を発表。オフコース時代からソロ活動を始めてはいたが、1989年 のオフコース解散以後にソロ活動を本格化。

1991年フジテレビ月9ドラマ東京ラブストーリー 』の主題歌として制作した楽曲「ラブ・ストーリーは突然に 」が、ドラマと見事なコラボレーション を成し、ドラマ・主題歌共に大ヒット。オフコース時代に叶わなかった、「オリコン シングルチャート 第1位」と「シングルミリオンセラー 突破」を一挙に成し遂げた。

その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、「伝えたいことがあるんだ」、「キラキラ」、「まっ白」などのヒット曲を生み出している。また、オフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したアルバム『LOOKING BACK 』『LOOKING BACK 2』や『自己ベスト 』は、幅広い年代に支持される大ヒットとなった。

1998年 7月22日夜、愛車セルシオ を自身で運転して事務所・関係者らとの恒例行事「DEATH MATCH」(ゴルフコンペ)開催のゴルフ場 へ向かうため、栃木県 都賀町東北自動車道 下り線を走行中、自損事故を起こし、全治4週間の重傷を負う。現場付近は雨が降っており、80キロの速度規制が出されていたところを、約20キロオーバーの100キロ前後で走行しており、スリップしてコントロールを失い、ガードロープに接触した。その衝撃で後部座席に飛ばされ、後部座席で横たわった形で救出される。車は大破。同乗者はいなかった。幸いにも、後続車による追突や、横転、反対車線への飛び出しといったことがなかったため、九死に一生を得る。約2週間の入院を経た後奇跡的な回復を見せ、同年9月12日、福岡県 にある「海の中道 」で行われた、スターダスト・レビュー とのジョイントコンサートで、完治していない体だったが歌手活動に復帰した。

2005年 にはオリジナルアルバム『そうかな 』、2007年にはシングル「こころ 」で、それぞれオリコンチャート週間1位を獲得。とかく過去の楽曲が注目・起用されがちな日本の同世代アーティストの中で、新曲で音楽シーンに存在感を示すことができる貴重な存在となっている。

CM とのタイアップ や、他のアーティストへの楽曲提供や、コラボレーション も行うようになった。また、初めて持ったテレビのレギュラー番組は大変な反響を呼んだ(#テレビでの活動 の節を参照)。また、音楽以外の分野では映画ドキュメンタリー の制作なども行った。

2008年 11月京浜急行 金沢文庫駅 の駅メロに「MY HOME TOWN 」が決まった。

2009年 3月 「ツアー2008 今日もどこかで」で文化庁 第59回芸術選奨 文部科学大臣賞受賞。