1980年、フジテレビの『笑ってる場合ですよ! 』のお笑いオーディション コーナー「お笑い君こそスターだ!」に「オスカル・メスカル」という漫才コンビ で出場した際に、同番組に出演していたビートたけしの楽屋 を訪ねて弟子入りを願い出て[2] 、1982年3月に付き人となる。2009年現在までに数多くいるたけしの弟子の第一号である。デビュー当初の芸名は「東英夫」であった。

その直後、コンビの相棒が芸能界入りする目的であった当時の人気アイドル歌手 河合奈保子 を生で見たことで満足し、芸能界を辞めるということでコンビは解散、やむなく京都産業大学 の学生だった丸山昭範と3か月だけという約束で、コンビを結成。師匠たけしのコンビ名「ツービート」の「ツー」をもらって「ツーツーレロレロ 」と命名。3か月後、芸能界を辞める丸山に、たけしに黙って失踪したという事にしてもらい、東国原は当時テレビ局でAD をしていた大森うたえもん (当時の芸名は大森クンタ)とコンビを組んで「ツーツーレロレロ」を続ける[3] 。人気漫才師ビートたけしの弟子と言うことで注目され、関東の有名大学をコキおろすネタを主にやっていた。1983年 にたけし軍団の一員となり、「ツーツーレロレロ」のコンビを解消。

1982年前後、たけしとたけしの弟子たち(後のたけし軍団 )の宴会が開かれた。そのなかで弟子全員の芸名をたけしが命名した。しかし、東国原は新しい芸名が与えられなかったため、たけしに対して、「殿 、私の名前はどうなるのでしょうか?」と聞いた。東国原はすでに「東英夫」という芸名を名乗っていたので、たけしは「お前はそのまんま、“東”だよ」と答えた。

これはもちろん「お前は従来の芸名『東英夫』を名乗り続けろ」という意味である。しかし、書記係のラッシャー板前 はたけしの言葉の意を勘違いしてしまい、「東英夫」ではなく「そのまんま東」とメモしてしまった。半ばシャレで、東国原は「『そのまんま東』という芸名を与えられた」ということにしてしまった。

加賀まり子 の頭に自分の局部をのせて「ちょんまげ」と言い放ったことがあるエピソードが、2003年の夏に放送された壮絶バトル花の芸能界せんだみつお に暴露される。加賀はまったく怒らずに呆れ顔で「はい、はい」といいながら頭から下ろしたらしい。

TBS「ここがヘンだよ日本人 」でレギュラーになったときは意外にも鋭い発言が多く、辛口コメンテーターとして発揮していた。特に、太っている出演者50人対して、「あなたたちは甘えている」「テレビで、デブで構わないというメッセージは危険」と痛烈に批判していた。一方で、過激な発言も少なくないため、たけしからのツッコミや外国人出演者からのブーイングをよく浴びていた。

テレビ番組で細木数子 に「テレビに向いてない」と言われたことがある。

愛弟子に芸人早川伸吾 がいる。

日本テレビ のお笑いバラエティ番組『ビートたけしの全日本お笑い研究所 』(1988年 4月~1988年 9月)で ニュースキャスター 「東国原英夫」として出演していた(出演者クレジット は「そのまんま東」)。

上岡龍太郎 に誘われ、石田純一 らとマラソン に打ち込んだ時期があり、それが現在にも生かされている。