第二次世界大戦 後にシベリア抑留 から引き揚げてきた父と日本で知り合った母とのあいだに、東京で生まれた。父親は旧満州ハルビン で生まれ育ち、ロシア語中国語英語 に堪能で、幼少のルーにハグ接吻 をするような人物であったという。また、ルーの父方の祖父はロシアウラジオストク で宝石商を営み、ロシア革命 後に満州に移り、日本軍 に飛行機を一機寄付してしまうほど富裕だったという。母親は再婚 であり、1度目の結婚で既に2人の娘がいた[1] 。母親の実家は印刷所を営んでおり、父親は婿養子 に入っていた。

両親が不仲になったこともあり、高校卒業を機に実家を出た。欧米 各地で、自作のアクセサリー を露天商売販売しながら数年間放浪。これを機に英会話 が特技となる。

帰国したとき、両親は離婚 しており、一旦は親戚の経営する印刷会社に就職するものの即退職。三橋達也付き人 を経て、1977年 にテレビドラマ『俺たちの朝 』で俳優としてデビューする(ただし、一話限りの出演でそれも端役扱い)。1979年勝新太郎 が主宰した『勝アカデミー』に第一期生として参加。この時、同期だった小堺一機 と知り合う。この間、俳優業は鳴かず飛ばずで、司会業やモデル業をして雌伏の時を過ごす。また、この時期に関根勤 とも知り合う。

折り込みチラシなど、モデル時代の事務所のパンフレットに掲載されていた“カジュアルなスタイルにウエストポーチをつけた格好”が『スーパーギャング・コサキン無理矢理100% 』で話題となり、番組内で“ポシェット・ルー”として人気に火がつく。後に番組内でレギュラーとしてポエムコーナー『ルー大柴のパックインミュージック』が出来るまでになった。

1989年 、関根勤主宰の劇団『カンコンキンシアター 』の旗揚げに参加し、その独特のキャラクターが脚光を浴びる。「アデランス 」のCMトゥギャザーしようぜ!!」のフレーズ が有名。1992年 、第29回ゴールデン・アロー賞 芸能新人賞受賞。

また『浅草橋ヤング洋品店 』の司会、『笑っていいとも! 』曜日レギュラー、NHK大河ドラマ花の乱 』や、舞台『ハムレット 』などに出演。またタレントとしてのキャラクターとは裏腹な演技力を発揮する俳優としての側面も持ち、近年では舞台俳優としても多くの作品に参加している。

1990年代 前半の短期間のブレイク 後、しばらくはカンコンキンシアターをはじめとする舞台演劇に活動の重点を置いていたせいもあり、テレビでの出演機会が少なくなり世間の露出度としては「控えめ」の状態が続いた。しかし2007年 初頭頃からクドすぎる本人のブログ、その本人の言葉が「ルー語」と言われ、以前ならば最も嫌われていた女子高生層の間で話題となり、再びブレイクした[2] みんなのうた にも起用された自身のCD がきっかけで、ワンガリ・マータイ が提唱したMOTTAINAI プロジェクトに賛同し、テレビ出演時にはそのTシャツを着ていることが多い。

現在は川崎市 宮前区 に在住する。