
大阪府 大阪市 東住吉区 出身。学生時代から発声をクラシックの木下保のもとで学び、プール女学院 高等部卒業。プール女学院時代の同級生には、三ツ矢歌子 がいる。NHK大阪合唱団を経て、大阪キューバン・ボーイズの近藤正春の勧めもあり、ラテン歌手として独立、デビュー。しかし、全く売れず、自殺 未遂を図ったこともあった。
1959年 12月、アイ・ジョージ と共に、トリオ・ロス・パンチョス の日本公演の前座歌手となり、一躍名が知れ渡り、人気歌手への階段を上る。宝とも子 らと共に「ラテンの女王」の異名を取った。また、1961年から始まったテレビ番組『夢であいましょう 』では主題歌も歌い、NHK紅白歌合戦 には1961年から1965年 まで5回連続出場した。
私生活ではこの頃、映画評論家 でもあり、当時人気司会者 であった栗原玲児 と結婚するも、1966年 離婚。二人で行った離婚会見の際、栗原が坂本側に離婚原因があるという発言を繰り返したことから、翌日になって(反論する意思は当初なかった)坂本側が反論。当時大いに話題になった。離婚理由は双方多忙ですれ違い生活が続いていた上、結婚初期からセックスレス であったこともあるが、決め手は栗原側から「別れてくれ」と言われたことであるとされる。坂本は結婚後、栗原が同性愛者 だということに気付き、それでも懸命に尽くしたが、結局ダメだった。離婚の際には「どちらも至らなかった」ということにしようと双方示し合わせたが、栗原の坂本批判により泥沼化し、栗原のイメージは低下、その後参議院議員選挙 に数度出馬するもいずれも落選、表舞台から姿を消した。なお、栗原はその後料理研究家の栗原はるみ と再婚している。