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1950年、志村憲司・和子の三男として東京都 北多摩郡 東村山町(現在の東村山市 )に生まれ、厳格な家庭に育つ。本名の「康徳」は、父親が徳川家康 を崇敬していたことにちなみ、頭の「徳」と尻の「康」をとり、逆さにした[2] 。芸名の「けん」は、父親の名前「憲司」に由来する。

幼い頃、厳格な父親の支配する家庭はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時まだ珍しかったテレビ のお笑い番組で漫才落語 を見ていた時だけは、嫌な気持ちを忘れることができた。その時だけは、厳格な父親も笑いをこらえながらテレビを見ていたという。そのような体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになった。

小学校時代、運動会で脱糞したことがあったという。東村山第二中学校 時代は文化祭でよくコントをしていたといい、所ジョージ (隣市・埼玉県 所沢市 出身)の遠戚とバンド を組んだこともあった。中学の頃から将来はお笑いで仕事をやっていくことを決心したという。東京都立久留米高等学校 に進学する。

1968年、卒業間際にザ・ドリフターズの付き人 になった。この際、リーダーのいかりや長介 が志村を強引に東北地方 巡業へ付き合わせたため、出席日数が足りなくなり中退 の扱いにされてしまったと言われる(本人の証言であるが、様々なプロフィールは卒業となっている。一説によれば、遅れて卒業したという)。2007年3月のブログでは、高校3年当時2月に付き人になり、3月の卒業式には参加したことを述べている[3]

初めは由利徹 の弟子になろうとした。ついでコント55号 かドリフのどちらに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選び、1968年 の2月にいかりやの家へ直接押しかけ、雪の降る中を夜中にいかりや本人が帰って来るまで12時間ほど待ち続けた。1週間後にいかりやから弟子入りを認められ、ドリフの付き人となる(いかりやとしては、ちょうど付き人が1人やめて人手が足りない時だったので、すぐに志村の採用を決めたという)。当時のドリフは積極的に音楽活動を行っていたため、仲間内では「付き人」ではなく「バンドボーイ 」(通称ボーヤ)と呼ばれていた。

加藤茶 の付き人となる[4] が、1年余りで一度脱走(本人の著書では、社会勉強をするため他の付き人に伝言して辞めたというが、いかりやの許可をもらったわけではないため、脱走扱いとなる)し、バーテンダー などのアルバイトをしたりしていた。『SMAP×SMAP 』(フジテレビ 系)の「BISTRO SMAP 」に出演した際にはこの時のことを、いかりやの家に行き「1年間だけ時間をください。1年経ったら戻ってきます」と言ったが、当時夫婦喧嘩の最中だったいかりやからは「うるせぇこの野郎!」と無視された、と述べている。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、加藤の家に行って頼み、加藤が個人的にいかりやへ口添えしたところ、「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう」と、出戻りを認めてくれた。その後しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。無名の付き人だった志村は、運転免許を持っていないため、当時国民的人気者の加藤が運転する車の助手席にふんぞりかえったまま加藤の家に帰り、加藤を差し置いて加藤の母親に晩御飯を用意してもらい、加藤より先に風呂に入るという大物ぶりを発揮していた。

1972年 、22歳の時にお笑いコンビ・マックボンボン を結成し、テレビ番組『ぎんぎら!ボンボン! 』に出演するも、失敗に終わった(この頃の芸名は「志村健」の表記が多かった。なお「志村健」の芸名は、現在台湾 で使用されている)。1973年12月見習いとしてドリフのメンバーに加入する。

1974年 、荒井注が脱退し、正式にドリフのメンバーとなる。なお、この時リーダーのいかりやは、荒井やいかりやと同年代の新メンバーの加入を検討していたが、加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時志村は24歳だった。