父の大野房次郎は鹿児島県
出身で、大野屋精肉店を経営。母は山形県
舟形町
出身である。その一方で、自ら芝居小屋を持つほど芸事が好きだった。
1956年 (昭和31年)、ニッポン放送 『ものまねのどじまん』で優勝。 同年5月に五月みどりの芸名で初ステージを踏む。
1958年 (昭和33年)11月、「お座敷ロック」でレコードデビュー。1961年 (昭和36年)5月、「おひまなら来てね」発売。それまでの歌手にはなかったチャーミングな美貌とともに、きれいな「ちりめんビブラート」を生かしたこの歌は大ヒットとなる。翌1962年 (昭和37年)にはNHK紅白歌合戦 (第13回 )に初出場。
その後も1963年 (昭和38年・第14回 )、1964年 (昭和39年・第15回 )と通算3回連続で紅白出場を果たした。ほか「一週間に十日来い」「忙しくても来てね」「明日も来てね」(来てねシリーズ)、「温泉芸者」「熱海で逢ってね」(芸者シリーズ)などのヒット曲がある。
1965年 (昭和40年)に結婚して引退するも、離婚して復帰。1970年代 以降はタレント、女優としての活動に重心を移す。1975年 (昭和50年)には主演ポルノ映画『五月みどりのかまきり夫人の告白』が話題になった。その後、40歳を過ぎても日活ロマンポルノ 作品に主演し、若々しい肉体と大胆な演技で世に衝撃を与えた。熟女 ヌード のさきがけとも言える。
1976年 (昭和51年)に番組がスタートした『クイズダービー 』の初代2枠レギュラーとして出演。勝率は4割6分8厘(平均4勝6敗~5勝5敗ペース)だった。レギュラー降板後も度々5枠のゲスト解答者として出演したが、出題が五月のレギュラー時より難しくなった事もあり、勝率は2割台に下がっている。又同番組最終回には、出場者(ギャンブラー席)として、初代3枠レギュラーの黒鉄ヒロシ 、初代5枠レギュラーのガッツ石松 とともにトリオを組んで登場した。しかし、賭け方が下手だった事もあり(大橋巨泉 後任の司会者で、最終回時5枠解答者席に座った徳光和夫 に何故か4回も賭けたものの、徳光の成績は8戦全敗だった)、賞金獲得額は0円となっている。
1989年 (平成元年)には二科 展入選。個展を開催したこともある。
近年では、ミツカン 「追いがつおつゆ」のCM で、菊池桃子との共演も行っている。最近は着物のデザインやティッシュボックスの製作などでも活躍している。また、最近では日本テレビ 系列で放映された『伊東家の食卓 』の母親役でもお馴染みであった。2007年 (平成19年)1月には、大相撲 の初場所14日目に溜席で観戦しているのがテレビカメラに大きく映っていたのにもかかわらず、中継では一切触れられなかった。