何度か『金剛寺さん』を読み返したのだが、その都度「金剛はナルチスではなくゴルトムントだ」という想いが強くなる。誕生日にプリンくんから「エビフライが食べたい」とねだられたことがキッカケで愛知県にまで単車を走らせてエビを買う浮かれポンチが理性の人なワケないんだよな。

 

金剛と母

 

 金剛もゴルトムントも母を亡くしており、母の記憶を抑圧しているという共通点は注目に値する。

 

 金剛が作中ではじめて心の保管庫にある母の記憶を辿るとき、その顔はあえて描かれていない。しかしプリンくんが「僕、苺苦手なんで貰ってください」と声をかけた次のページでは見開きいっぱいの大写しにて母の顔がハッキリと描かれている。「ママは苺が苦手なの」(1149-152)

 ここでプリンくんはナルチスと同様に心の奥底にしまい込んでいた母の記憶を想い起こす手助けをするカウンセラーの働きを果たしているのだが、金剛にとってのプリンくんが母であり憧れであり生涯をかけて追い求めた存在である点には注意が必要である。ゴルトムントがナルチスと彼の勤める修道院を離れて世俗へと出でなければならなかったのと対照的に、金剛の求める存在は常にその隣に居たのである。5巻の金剛の台詞には「母が亡くなってきてから色々なものを封印してきた」がプリン君と出会ってから世界が色彩を取り戻した、という旨のものがある(170頁〜)。金剛にとってのプリンは母の死を克服するために置き去りにしてしまった何がしかであり、失われた半身である。

 英語で配偶者をbetter half「よき片割れ」と呼ぶのだが、この語源にはプラトンの『饗宴』で語られる神話がある。『饗宴』にて飲みの席に侍ったアリストパネス曰く、かつて人間は前後に顔を持ち手足のそれぞれを4本持つまん丸な生き物(アンドロギュノス)だった。やがて人間が増長し神々に逆らうようになると、怒ったゼウスは人間を弱めるためにまん丸なその身体をふたつにちぎってしまった。そうして人間はひとつの顔とそれぞれふたつの手足を持つ今の姿となり、失われた半身を求め愛に恋に生きるようになったのだという。

 7巻のピロートークでのセリフはまさにこの「まん丸人間」の逸話を彷彿とさせる。「生まれた時この世に君がいないことに気づき私は泣いた。私の鳴き声が地獄に穴を開けたのだ」「私は私。君は君。違うものとして大好きだ」

 

 金剛は自分のことをナルチスだと、血肉の通わない道徳の機械だと思い込んでいた。しかし実際にはそうではなかった。母親を見失った子どもに金剛は「大好きな人がいないのは寂しいよね」と声をかけ(101)、自分の中になにか名状しがたい感情があることに気づく。プリンくんを亡くしても「あの人のような何か」は確かに胸の中にあって、だからもう寂しくはなかった。かくして母の不在とそれを埋め合わせたプリンくんとの死別は乗り越えられ、物語は次の世代へと受け継がれていく。

 

ゴルトムントと母

 

 ゴルトムントは同輩の生徒たちの中でもとりわけ感じやすく繊細な子どもであった。他の子らが夜半に宿舎を抜け出して近くの村の娘と会い、時には愛撫とキスさえも悪びれず楽しむのに対して、ゴルトムントはひと目見えた村娘に邪な感情を覚えてしまったというだけで幾夜ともなく不調を来すほど潔癖であった。

 ゴルトムントの性愛に対するコンプレックスの背景には父親から「お前の母は男と代わる代わる共寝をするあばずれだ」と言い聞かされたことが背景にあった。それを見抜いたナルチスは精神分析家さながらの対話を通じてゴルトムントの記憶の底にあるあるがままの母の記憶を呼び覚まそうとする。そこに居た母の姿は父親によって歪められた哀れな女のそれとは全く異なっていた。優しく自分のことを抱き寄せて撫でてくれるあたたかい母がそこにいた。亡き母と出会い直すことがゴルトムントの還俗のきっかけのひとつとなる。

 病を得て生死の境を彷徨いながらナルチスのもとに帰ってきた物語終盤のゴルトムントの様子はたいへん痛ましいのだけれど、それでもなお安易な同情を寄せ付けないふしぎな静謐さがある。若さを失い、かつてのように女性と肌を重ねることも出来ず、友の居る修道院に帰ることもせず、天分であった彫刻にさえも手を付けられずにいたゴルトムントがそれでも穏やかで幸せそうにしていたのは何故だろうか。

おそらくゴルトムントが死の淵にてようやく母と見え、その傍らにたどり着くことが出来たからだと思う。ここで言う「死」とは生物学的な死というよりもむしろ若く放埒なゴルトムントという人格の死である。

 おそらくゴルトムントが預かり知らぬところで彼の母もまた若さと美貌とを失い孤独を深めた時期があったのではないか。ゴルトムントと同様に家族や安定した社会関係の埒外にて病に伏せっていた時期があったのではないか。そのことに想いを馳せるとゴルトムントの死の過程はなおのこと美しく感ぜられる。

 軽く調べたところゴルトムントをエディプス・コンプレックスに沿って読み解こうとする向きもあるようだが、そのような試みは全く的を外しているように思われる。ゴルトムントにとっての母は遠い憧れであり人生の模範であった。彫刻家としての理想の・最期の仕事を完成させることが出来ずともゴルトムントが満足していたのは、彼がようやく母を理解した上で自らの生を肯定できたからなのではないだろうか。

 

罪の赦し

 

 新訳聖書にてイエスが「このように祈りなさい」と教えた手本の祈り(主の祈り)の中に「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」というフレーズがある。キリスト教における「赦し」とは、法律や利害関係における「許し」とはいくらか意味合いが異なっている。「許し」と「赦し」にあえて別の漢字に書き換えて区別するのであれば、前者は誰かしらに危害を加えた者が妥当なプロセス──裁判だとか刑罰だとか金銭の授受だとかを経て社会や被害者から咎めを受けなくなることである。許しの主体は被害者かその代理人である。

 一方の赦しはその者の抱える罪によって危害を加えられた者だけが与えるものではないし、赦しを与える側も人の身である以上は原罪をはじめ罪を負う身であることに変わりはない。赦しとは赦しを乞う者の罪を知りその軛(くびき)を共に負うことである。罪が精算され咎めが無くなることではない。

「許し」と「赦し」の違いを踏まえた上で5巻の金剛の台詞を見てみよう。プリン君が金剛の母を殺してしまった過去を打ち明け、それに応える台詞である。「私は君を許せない」、「(プリン君を抱きしめながら)…分からない!!論理や道徳的規範に反する誤った行為だただ君と生きたい」(170-176)。プリン君の罪を決して許すことが出来ずその術もない金剛が、しかし彼のことを赦し道行きを共にする覚悟を決めているのである。

 6180-181頁にて自らの心の中の獣と対峙するプリン君の台詞も引いておこう。「いていい。隠しても罪は消えない。僕は君と過ごす。そんな僕を金剛寺さんは選んでくれた。だから僕は君も肯定する。ずっと一緒にいよう」

 金剛と育ての親である仁愛によって赦されたプリン君だが、彼の獣はどこかに消え去った訳ではない。母親殺しの罪と金剛を傷つけてしまいかねない暴力的な側面をずっと抱えながら生きていこうと誓うその姿は、敬虔なキリスト者にも似たしなやかさを湛えている。