『金剛寺さんは面倒くさい』はマンガとは思えないほどに文字の量が多く、地獄・鬼といった作品独自のファンタジー設定に科学的説明を欠かさないSF的誠実さも相まってたいへんに骨太な作品だった。これで単行本7巻の分量だというのだから信じられない。読後に覚えるランナーズハイに似た疲労感と快さは『カラマーゾフの兄弟』に勝るとも劣らないほどだ。

 もっと端的に言い換えよう。『金剛寺さんは面倒臭い』は面倒臭い。

 

 

 そんな『金剛寺さんは面倒臭い』(以下『金剛寺さん』と表記する)を語るために最も有用な補助線となるのは作中で主人公・金剛寺金剛の愛読書として名前が挙がるヘッセの『知と愛』だろう。

 

 

『金剛寺さん』について余すところなく語るにはとても読み込みと体力が足りないから、ひとまず『知と愛』に沿ってだけ考察を進めてみることにする。

『知と愛』については未読の者にも伝わるようにも紙幅を割くが『金剛寺さん』についての細かな説明は省くので未読の者はぜひ『金剛寺さん』を読んでほしい。饒舌な登場人物たちがおのおのの思想信条を戦わせ発展させる思弁的な作品が好きならきっと気にいるハズだ。

  • 『知と愛』のあらすじ

 下にあらすじをまとめたが読むのが面倒臭いものぐさな読者は次の一文だけ心に留め置いてくれれば良い。愛の人・ゴルトムントは亡き母の面影に包まれながら母なきナルチスの身を案じる言葉を遺して死んでいった。

 

『知と愛』はあくまでも原作の意図を汲み取った邦題であり、原語では Narziss und Goldmund すなわち「ナルチスとゴルトムント」となっている。知と理性を体現する見習い僧・ナルチスと、愛と感性を体現する少年・ゴルトムントの交友と成長Bildungの物語だ。

 

 父親の手を離れて修道院に預けられたゴルトムントは聡明で勤勉な少年であったが古典語や神学を納めることよりもむしろ森や小川に遊んでその美しさに耽る感受性にこそ富んでおり、次第に窮屈な修道院での生活に苦痛を覚えるようになる。

 そのことを認めたナルチスはゴルトムントと根気強く対話して彼の魂にはたいへん優れた愛と芸術の才能があり、それはナルチスら求道者の静謐な精神と比べて劣るものでは決してないこと、そしてその魂の輪郭にそぐわない場所に居着いて才能を台無しにしてしまうよりも、還俗し修道院の外に出てもっと相応しい生き方を見つけるべきだと諭す。

 ナルチスのようになりたいという無垢な憧れを抱いていたゴルトムントははじめこそ彼の「君は私のような求道者にはなれないし、なるべきでもない」という言葉に心を痛めたものの、次第に自らの中にある愛の感性と女への憧れ、その源である亡き母への愛着を自覚するようになる。

 そんな折にゴルトムントは老司祭の遣いで薬草摘みに出かけた野原で若い女と見え、そのまま肌を重ねてしまう。色を知ったゴルトムントは修道院に帰るなりナルチスに別れを告げ、村々を渡り歩き夜ごと別の女と肌を重ねる放浪の旅に身をやつすこととなる。

 色に溺れたゴルトムントの旅路についてはここではほぼ割愛する。彼はたまたま立ち寄った教会で見かけたマリア像の彫刻に心を打たれてその作者に弟子入りし創作の道へと足を踏み入れる。旅の終わりは劇的であった。領主の愛人との逢瀬を見つかってあやうく処刑されかけたゴルトムントは修道院長となったナルチスの嘆願によって無罪放免となり、あの懐かしい修道院へと帰ってくる。年老いたゴルトムントは生涯最後の仕事として実母と人類の母イブとを倣いとした彫像を作りたいという念に駆られるがついにそれは叶わなかった。死前のまどろみの中ゴルトムントは母の幻想に浸りながらナルチスの手を取り、母のいない彼のことを案じながらこの世を去る。

  • 三部構成

『金剛寺さん』と『知と愛』を比べたとき、構造上とくに似通っている点がふたつある。

 

 ひとつはふたりの邂逅、冒険譚、再会という三部構成になっていることだ。

 

『金剛寺さん』は捨て猫にエサをやるプリンと金剛が出会うところから物語がはじまる。はじめプリンの給餌を「浅薄な快楽主義的な行動」と見なし彼を軽蔑しかけた金剛であったが、彼が家に十余匹の捨て猫を持ち帰り里親を探している「衝動的なだけで誠実な人間」だと気づいて恋の雷に打たれる。

 プリンの側もまた同様であった。道端で産気づいた妊婦を前におろおろと様子を伺うだけのプリンの傍ら、金剛は手際よく妊婦を介抱しかかりつけの産科への連絡とタクシーの手配を済ませる。妊婦は金剛に感謝を伝えるが、金剛は自分の行動は道徳的規範に基づいた機械的行動に過ぎずそこに人間的感情は伴わない、だから礼には及ばないと距離を置く。

 自分のことを感情のないロボットと捉えている金剛は「愚鈍さによって何かを見逃さないよう」社会規範というプログラムを鎧のように纏っていると語る。鎧の中にプリンの持つ優しさような血の通った感情がないことを恥じ入る金剛だったが、プリンは金剛のそうした側面にいたく感激し惹きつけられる。「優しくないからすごいんです」、「(空っぽの)鎧だとしても僕にはないキラキラの鎧です」、と。

 

 互いに相反する個性を持つふたりが出会い大いに感化されて自己を探し求める冒険へと駆り立てられる点(言うなればBildungsroman的展開)において、『知と愛』と『金剛寺さん』は共通している。異なるのはゴルトムントがナルチスの元を去りひとりで旅に出たのに対し、金剛とプリンはふたりで人生の旅と思索を続ける点にある。金剛とプリンの四国ツーリングにおける瑞々しい自然の描写は、ヘッセ作品に見られる動物たちが行き交う川辺に似た美しさを湛えている。

 

 晩年、子育てを終えた金剛とプリンの雨の日デートは『知と愛』においてゴルトムントがナルチスと再会した後の展開と似通っているように思われる。プリンが道端に捨てられた子猫をあやすのを見て彼が愛の人であることを思い出し「まったく君はゴルトムントだな」と笑いかける金剛。「ナルチスは金剛さんみたいですね」と笑みを返すプリン。知と愛を象徴するふたりが晩年に改めてそのことを確かめあい讃えあう場面は言いようもなく感慨深く美しい。

 金剛がプリンの手を握りながら彼を看取るシーンは、ナルチスがゴルトムントを看取るシーンの明確なオマージュである。『知と愛』においてはナルチスがゴルトムントを看取り、ゴルトムントの遺した母への憧れがナルチスの胸中を炎のように焦がして終わるのだが、『金剛寺さん』はプリンの死後も物語は終わらない。

 プリンを亡くした哀しみに暮れる中、泣きじゃくる幼子を見つけて駆け寄る金剛。「大好きな人がいないのは辛いよね」と声をかけるその姿は、もうかつて彼女がそう信じていたロボットなどではなかった。幼子を母親に引き渡してから彼女はしみじみと思う。伽藍堂だと思い込んでいた心の中にも確かに「あった あの人のような“何か”が」。プリンと出会い、彼と共に育んだ愛に抱かれながら金剛は穏やかに愛する者の死を悼み、彼の待つ天の国へと召されていく。

 

『知と愛』は知と愛、理性と感性、求道と性愛といった人間のふたつの側面を徹底したキリスト者と同じく徹底した非キリスト者に振り分けて描き出す試みであったように思う。だからこそナルチスとゴルトムントは分かち合えるものが極めて少なく、真善美への憧れと人間への賛美とだけで通じ合っているようなところがある。

『金剛さん』は、あるいは金剛とプリンはそうではない。自分には愛を持たないと思い込み愛読書『知と愛』のナルチスに自分を重ね合わせていた金剛は、きっとずっと前から愛に目覚めていた。「あの人のような“何か”」は彼女が気づいていなかっただけでずっとそこにあった。

 ゴルトムントとは「金の口」あるいは「思弁家」の意である。漢字では「金口」と書きおおむね「きんこう」または「こんこう」と読ませるらしい。金剛(こんごう)と音が似ているのは偶然では無いだろう。金剛寺金剛はナルチスであり、また同時にゴルトムントでもあった。

 

 構造上の類似点のもうひとつは、母の所在が物語において重要な役割を果たしていることだ。

 この記事はスターバックスにて書いているのだが、トールサイズのアイスラテを飲み干してしまったのでひとまず区切りとする。金剛寺さんに負けず劣らず面倒くさい記事となったが読み通してくれたことに感謝したい。