野球とハンドがつなぐ糸
プロ野球・大洋ホエールズの1960年日本シリーズ制覇に貢献し、翌年のオースルター戦にも出場した「元祖・代打の神様」麻生実男さんと、その愛娘で岡山県の情熱指導者として知られる麻生薫さん(現・倉敷東中)の親子物語については、スポーツイベント・ハンドボール3月号と2月17日に発信したこのブログでご紹介しました。さて、そんな麻生親子の野球&ハンドボールつながりは興味深い人たちに結びつきます。
麻生さんが代打のスペシャリストになった陰には、その年、パ・リーグの近鉄バファローから移籍してきた鈴木武さんの存在がありました。
それまでショートのレギュラーだった麻生さんでしたが、勝負強い打撃とは裏腹に守備に課題があったことから、鈴木さんに定位置を奪われてしまったのです。
その鈴木さんも前年の近鉄時代、読売ジャイアンツから迎えられた千葉茂監督のもとでは力を発揮できず、試合出場のチャンスを失った形でした。
ところが、ホエールズの三原監督が西鉄ライオンズ時代に鈴木さんの能力を高く評価していたことから鈴木さんをトレードで獲得。その鈴木さんに代わってバファローの内野の要としてプレーしたのが千葉監督とともにジャイアンツから移籍した内藤博文さんでした。
代打の神様と頭脳明晰な巧者
内藤さんは当時の球界を代表する技巧派の名内野手。セカンドからファーストへのジャンピングスローは内藤さんの代名詞とも言われた得意技でした。
すでにジャイアンツ在籍10年を数えてベテランの域に達し、頭脳明晰で将来の幹部候補生とも目された内藤さんでしたが、師として慕っていた千葉さんから「どうしても自分と一緒にバファローに来てほしい」と懇願されて移籍に同意した経緯がありました。
千葉さんが率いたバファローは成績がふるわず、1959年から3シーズンで監督交代を告げられ、内藤さんも千葉さんを追うように13年間の現役生活に別れを告げました。
名手が2人が同じチームで
その後、内藤さんは1964年から1967年まで国鉄スワローズ-産経アトムズのコーチを務めますが、注目すべきは1966年にホエールズから移籍してきた麻生さんと同じユニフォームを着たのです。
麻生さんはこの年を限りに現役を引退。麻生さんが1991年に、内藤さんも2013年に亡くなられため、敏腕コーチと職人肌の選手がどんな関係だったか知る由もありませんが、ぜひ当時のチームメイトから話を聞きたいものです。
内藤さんは1968年からサンケイスポーツで野球評論家、記者として活動。1978年から1980年まで古巣・ジャイアンツのコーチ、1982年から1986年までヤクルトで2軍監督、1987年から1991年まで巨人の球団職員、その後、ベースボールマガジンの記者を務めるなど、まさに野球一筋の人生を送りました。
内藤さんの愛娘がGHBPと
そんな内藤さんがハンドボールと結びつくのは、麻生さんと同様に愛娘の里砂さんがキーパーソンになります。
ネイリストの里砂さんと同じ職場で仕事をしていたのが日体荏原高-日体大-三景とポストマンでならした増井大悟さんでした。
内藤さんの義弟にあたるのがハワイ出身の通称エンディ。ジャイアンツのスラッガー宮本敏雄さんで、そのエンディと増井さんの風貌がよく似ていたこともあり、内藤さんとエンディに可愛がられた増井さんは、何度も内藤さんの実家におじゃまする親密な間柄になりました。
GHBP Aresでプレーする増井大悟さん
増井さんと言えば、マスターズチームGHBP Aresのメンバーで、先日のチャリティイベント「HAND to HAND」の中心スタッフを務めました。そうしてAresのチームメイト、そして「HAND to HAND」のメインパーソナリティを務めるタレントの西村和彦さんと力を合わせることになります。
球界スターもハンドを応援
「HAND to HAND」にビデオメッセージを贈った栗山さんと中畑さん
増井さんと言えば、マスターズチームGHBP Aresのメンバーで、先日のチャリティイベント「HAND to HAND」の中心スタッフを務めました。そうしてAresのチームメイト、そして「HAND to HAND」のメインパーソナリティを務めるタレントの西村和彦さんと力を合わせることになります。
球界スターもハンドを応援
「HAND to HAND」にビデオメッセージを贈った栗山さんと中畑さん
また、増井さんと内藤さんのつながりもあり、日本ハム・ファイターズの栗山英樹監督が「HAND to HAND」の開幕セレモニーに毎回ビデオメッセージを贈ってくれました。
スワローズの2軍監督時代、内藤さんは自分と同じくテスト生として入団した栗山さんに目をかけ、何度か挫折しかけた栗山さんを立派なプロ選手に育て上げました。
そんなわけで栗山さんは内藤さんを野球人生最大の恩師と慕い、訃報の際には「あの人がいなければ、今の俺はなかった。野球観、生き方、すべてが俺のベースになっている」とコメントしています。
また、今回の「HAND to HAND」では、栗山さんとともに前横浜DeNAベイスターズ監督の中畑清さんもビデオメッセージで選手たちを激励してくれました。
中畑さんは内藤さんがジャイアンツコーチ時代の愛弟子の1人。亡くなられた仁美夫人が日女体大でハンドボール部に在籍したこともあり、このほど増井さんらの要請を快く引き受けてくれたのでした。
そして、里砂さんも「HAND to HAND」スタッフとして、会場入り口でチャリティグッズ販売を担当していました。
麻生薫さんからの「ぜひお会いしたい」のメッセージに笑顔を返してくれた里砂さんでした。
スワローズの2軍監督時代、内藤さんは自分と同じくテスト生として入団した栗山さんに目をかけ、何度か挫折しかけた栗山さんを立派なプロ選手に育て上げました。
そんなわけで栗山さんは内藤さんを野球人生最大の恩師と慕い、訃報の際には「あの人がいなければ、今の俺はなかった。野球観、生き方、すべてが俺のベースになっている」とコメントしています。
また、今回の「HAND to HAND」では、栗山さんとともに前横浜DeNAベイスターズ監督の中畑清さんもビデオメッセージで選手たちを激励してくれました。
中畑さんは内藤さんがジャイアンツコーチ時代の愛弟子の1人。亡くなられた仁美夫人が日女体大でハンドボール部に在籍したこともあり、このほど増井さんらの要請を快く引き受けてくれたのでした。
そして、里砂さんも「HAND to HAND」スタッフとして、会場入り口でチャリティグッズ販売を担当していました。
麻生薫さんからの「ぜひお会いしたい」のメッセージに笑顔を返してくれた里砂さんでした。
情熱指導者として知られる麻生薫さん
さらに驚くつながりが!
さて、この野球&ハンドボールつながりは、まだまだ終わりではありません。実は麻生さんと内藤さんが在籍した1966年、丸山完二さんという外野手も同じ産経の一員でした。その後、ヤクルトの中心選手-スタッフの道を歩んだ丸山さんは、現在、中学生野球チーム「東京神宮シニア」の監督を務めています。
なんと今年4月、我が孫の力斗がその「東京神宮シニア」にお世話になることになったのです。私の甥っ子の三男・南木寿也(現桐蔭学園高2年)が、「東京神宮シニア」出身だったという巡り合わせが、我が家との結びつきともなりました。
麻生さん親子を取材した時、まさかうちの孫とつながるとは夢にも思いませんでした。
内藤さんがヤクルト2軍監督時代、丸山さんは同じく2軍総合コーチと、まさしく同じ釜の飯を食べた間柄。いつかお会いして麻生さんや孫たちの話ができる機会に巡り合えたら大変うれしいと思っています。
さらに驚くつながりが!
さて、この野球&ハンドボールつながりは、まだまだ終わりではありません。実は麻生さんと内藤さんが在籍した1966年、丸山完二さんという外野手も同じ産経の一員でした。その後、ヤクルトの中心選手-スタッフの道を歩んだ丸山さんは、現在、中学生野球チーム「東京神宮シニア」の監督を務めています。
なんと今年4月、我が孫の力斗がその「東京神宮シニア」にお世話になることになったのです。私の甥っ子の三男・南木寿也(現桐蔭学園高2年)が、「東京神宮シニア」出身だったという巡り合わせが、我が家との結びつきともなりました。
麻生さん親子を取材した時、まさかうちの孫とつながるとは夢にも思いませんでした。
内藤さんがヤクルト2軍監督時代、丸山さんは同じく2軍総合コーチと、まさしく同じ釜の飯を食べた間柄。いつかお会いして麻生さんや孫たちの話ができる機会に巡り合えたら大変うれしいと思っています。