ショックな出来事や、言葉に接した時は特に、そうでなくても、何かに対しては常に3つ4つあるいはそれ以上の感情や感覚や感慨や過去データが沸く。瞬時に同時多発的に沸く。時間を置いて湧き上がってくることもあるし、時間の経過で変化もする。
私の中では、相反する主張をする何か達が、共存している。
声が大きいやつも、ちいさいやつも、迷惑なやつも、不謹慎なやつも、びびりなやつも、いる。
一度に喚き始める混乱に対して、ひとつずつ、言語化して並べて見ないと自分が分解しそうになる。
誰かに、話そうとしないと言語化にならない。
聞かされる人の負担もあるよー言ってくるやつもいるから、ブログやツイッターはいいツールだ。
ここ一か月のように。
体調崩して、入院して、手術して、あっという間に亡くなったので、同時多発的感情には「ちょっと待ってて」が多かった。
腹立つと悲しいは、基本的には後回しだ。彼らが暴れる場所は、後で用意するよって。
不安と後悔にも、ちょっと黙っててになる。私より不安が大きいのはきっと子供らだろうから。
喜びの立ち位置が微妙だ。立ってる力を得る為に必要だとも感じ、喜びはそんなんじゃないとも感じ。
笑っちゃうよねーが、バランスを取ろうともがいてたりする。
過去のデータが一度反転するのを感じる。良かったこと、楽しかったことが、喪われたものとして、涙になる。そもそも過去なので、すでに失われてるのに、データに貼るタグが変更されたかのようだ。
「いい思い出」を話そうとすると、泣けてくる。「笑い話」もそうだ。
訂正してくれる人がいないから、更新が止まって、タグ付け作業の担当が混乱してる。
一時的なものであろうとの予測は立っている。
時間が解決するよ、って言われる。
でしょうね!って思う。
でもね!って思う。
子供がいるから、って言われる。
そうね、って思う。
でも、違うでしょっても思う。
亡くなった方が一番悔しいでしょう、って言われる。
そうね、って思う。
いやいや、こっちもいろいろ思うわ!ってもなる。
残された家族が明るくいないとね、って言われる。
そうよね、生きてかなくちゃよね、って思う。
バカか、なんでお前の安心を押し付けてくるんだよとも思う。
ちゃんと悲しまないと後から来るよ、話しなよって言われる。
そうよね、悲しいもんね、って思う。
でも話したい人は、あんたじゃないもん、って思う。
一番聞いて欲しい人は、あんたじゃない、もう答えてくれない人だから、って思う。
看病や介護がなかったから、良かったと思わなきゃ、って言われる。
そうね、そうだったら大変だったかもしれないしね、って思う。
でも、あの時の私の祈りは「手足の一二本はくれてやるから、あの笑い声帰って来て」だった。
そんなん、言わないでよ、とも思う。
やるべきことやってれば時間が過ぎるから、忙しくなるのもいいのよって言われる。
そうね、ちゃんと手続きと手配をしなくちゃね、と思う。
こんなん、やってられっか、メンドくせーんだよー!!っても思う。
私の死体の処理をする時は、こんなに面倒じゃないと良いなぁ、きっとそうしてよねとも思う。
慶事は無理よね?って言われる。
まぁ、そうかもとも思う。
でも、それ、そっちの喜びなんだから、喜んじゃっていいでしょ?遠慮されても困るんだよねとも思う。
誰も死なない日もないし、誰も生まれない日もないし、結婚式はずっと前から計画してるものだ。
どの言葉も、良かれと思って親切心で言ってくれてるものだというのも分かるから、同時多発的に沸く感情の中から、当たり障りのない言葉を編集して選ぶ。
我ながら面倒な人間であることよ。