大辺路を歩く 番外編

甦りの地を目指して


世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されている〝道の世界遺産〟熊野古道-大辺路(おおへち)を昔話とともに巡る連載が始まりました‼️


初回にしてまさかの番外編。大辺路を語るうえでは外せない闘鶏神社について記していきます!ここでの物語があの場所での出来事に結びつくなんて…。


熊野古道-大辺路とは?

熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への参詣道として利用された熊野古道のひとつ。一部区間は生活道路として半世紀ほど前まで利用されていたとの話もあり「昔はバタコ(オート三輪)が走っていた」と地域住民が語るほど。


田辺市にある闘鶏神社を起点とし、那智勝浦町にある補陀洛山寺を結ぶ約120kmの道程。現在の海岸線(国道42号線)とほぼ同じルートとなっており、枯木灘などの景勝地が点在していることから、庶民の旅人や文人が観光を兼ねて利用したほか、古くは万葉の時代に都人が海路と併用して利用していたとか。


また、闘鶏神社から分岐する熊野古道は、大辺路のほかに中辺路(なかへち)があり、こちらは山越え(現在の国道311・168号線に相当)となり、大辺路と比べて距離が短く、貴族や上皇などの公式参詣道「御幸道」として利用されていました。

ちなみに、熊野参詣に訪れた貴族や上皇のうち最も多くこの地を訪れたのは後白河法皇。宮地直一「熊野三山の史的研究」によると、およそ30年の間に33回と記されています。

闘鶏神社 三山の神を勧請


【御由緒】和歌山県神社庁ホームページより引用

社伝によると允恭天皇8(424)年9月、熊野坐神社より勧請したという。白河法皇の頃には、熊野路に強盗が多く行幸を悩ますため、熊野三所権現をこの地に勧請し、三山参詣に替えたという伝承がある。また、紀伊続風土記には「熊野別当湛快のとき、熊野三所権現を勧請し、新熊野と称す」とある。



熊野三山と深い関係が       

御由緒にもあるように、熊野三所権現をお祀りしていることから、三山まで足を運ばずともここで完結してしまうそう…。


そう言えば、熊野三所神社が白浜町と那智勝浦町にもあったような。那智勝浦町にある熊野三所神社は「くまのさんしょおおみわやしろ」は私の遊び場でもありました。


「お伊勢へ七度、熊野へ三度」と言われるほど盛んに参詣がなされていた時期ではあったが、庶民にとってはなかなか踏み出せない旅路であったでしょう。そんななか、熊野参詣を気軽にできる環境があることは心の支えにもなったのでは。(筆者曰く)



源平合戦 勝敗の鍵はココに



左側のお方に見覚えありませんか?


源平争乱の時代に活躍されたあの人…


田辺市出身といえばもうお分かりでしょう!



正解は、武蔵坊弁慶

ちなみに、右の方は父・湛増(熊野別当)


さて、この場面は何を伝えているかと言いますと、闘鶏神社の由来となった「闘鶏」の真っ最中。源平争乱が起こっている当時、天下最強とされた「熊野水軍」が源氏と平家のどちらに手を貸すか、紅白のニワトリを闘わせて神意を問うているとのこと。


結果は、白のニワトリが勝ったことから源氏に味方。熊野水軍が率いた軍勢はおよそ2000人、舟が200隻あまりの大所帯。出陣した壇ノ浦の戦いでは、海上が主な戦場ということもあり源氏側に大きな勝利をもたらしたと伝わっています。


↓境内にある石碑が詳しく解説しています↓


壇ノ浦の戦いに敗れ滅亡が確定した平家。その頃、大辺路の終点・補陀洛山寺では、平家のとある武将を主人公とする悲しい物語が始まろうとしていました…


詳細は次回「大辺路を歩く 第一帖」にて紹介。

(投稿は2022年2月5日頃)