前田日明 と 陽明学
先日K-1ダイナマイト2007完全版を見ていたら、前田日明がトロフィーを田村潔に投げつける場面が流れていた。井上ワカは眼をパックリ開け唖然としているようであった。
今月の格闘技通信を見ていたら兄さんのインタビューが載っており何故、トロフィーを投げつけたか説明していた。読んだ人の中には言いたい事は理解できるが人前で投げつける事はないだろうと、やるなら裏でやりなさい裏で、そう思ったりする訳でしょうが、前田日明にはそうせざるを得ない理由があるはずなのである。
小生は十数年前から前田日明は陽明学徒ではないかと思っている。前田日明の試合を見たから前田日明に惹かれている訳ではなく事の成否に関わらない彼氏の言動一致によって彼氏に惹かれている。言い換えれば前田日明が陽明学徒であるという小生の思い込みによって前田日明の行動を支持しているといっても過言ではない。
小生では陽明学とは何か説明できないので以下は司馬遼太郎氏の著書から抜粋
陽明学派にあってはおのれが是と感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのように己が知った以上、精神に火を点じなければならず、行動をおこさねばならず、行動をおこす事によって思想は完結するのである。行動が思想の属性か思想が行動の属性かは別として行動をともなわぬ思想というものを極度に卑しめるものであった。
いわば秩序の支配者にとってはおそるべき思想であり、学問というよりも宗教であることのほうがややちかい。
陽明学を信奉すれば
『堕夫をも志をたてしめ、頑夫をも潔からしめ、人格に生気を帯び、行動に凛気を帯びしめる』と言われた。
この学派にあっては動機の至純さを尊び、結果の成否を問題にしない。飢民をみれば惻隠の情をおこす。そこまでが朱子学的世界における仁である。
陽明学にあっては惻隠の情をおこせばただちに行動し、それを救済しなければならない。救済が困難であっても、それをしなければ思想は完結せず、最後には身をほろぼすことによって仁と義をなし、おのれの美を済すというのがこの思想であった。
この学問にあっては事の成否を問うことを卑しむ。事が成功するかどうかを考え、成功するならやるというような考え方を不純として排斥するのであり、この思想に忠実であるかぎり、大塩平八郎、は何人も出るであろう。
この陽明学を誰に施してもことごとく上記のようになるというものではなく、もともと性格として陽明学的体質というものがあるのであろう。そうゆう性格者のなかに陽明学思想が入ったとき、その性格の正義があたえられ、倫理的に琢磨され、その行動に論理があたえられるのに違いない。
陽明学の信奉者
吉田松陰、高杉晋作(他松下村塾生)、西郷隆盛、大久保利通、河井継之助、佐久間象山、大石内蔵助、大塩平八郎、三島由紀夫、安岡正篤
兄さんの場合は陽明学的体質を元々もっており、三島由紀夫を通して陽明学を知り、その精神に浸透し行動原理の正当性が与えられたのではいかと思う。もっと突っ込んだ事を書かせてもらえばその性情の激しさから高杉晋作タイプの陽明学徒ではなかろうかと思う。
小生のような陽明学にファンタジーを感じてる人間、この国を変えれるのは陽明学徒の集合体だと信じている人間にとって前田日明が格闘技の世界で田村潔にトロフィーを投げつけているのが非常に勿体無いと思う訳で、早く格闘技の世界から足を洗って政治の世界に行って欲しいと願って止みません。政治の世界と関わった陽明学徒は志半ばで非業の死を遂げる事が真理であるように思いますが、是非にと。
前田日明役は北村一輝、監督は三池崇史