新日 vs UWF 5対5イリミネーションマッチ と 上田馬之助 のアレ | なんでもいいや

新日 vs UWF 5対5イリミネーションマッチ と 上田馬之助 のアレ

 えー、前置きはさておき、懐かしいアレを。出場者は新日本プロレス正規軍として猪木・藤波・木村健・星野・上田馬之助。UWF軍は前田・高田・藤原・山崎・木戸。この試合の味噌は上田馬之助さんがどうしてエントリーされているのか。という一点に尽きる訳ですね。ちなみに今日のブログの一番下の方に上田馬之助さんという剣豪のお話も某サイトから転載しているので興味のある方はどうぞ。そんな感じでイレコンデル日明兄さんはダンディですな。みたいなアレ。

 

〇UWFvs新日正規軍5対5イリミネ-ションマッチ

 

 

おまけ

 

〇Brazilian Muay Thai (video)
 

WEC on HDNET (6/30/06)

 

〇Rob McCollough vs. Ryan Healy
 
〇Brad Imes vs. Mike Dexter
 
〇Joe Hurley vs. Nathan Diaz
 
〇Joseph Martin Vs. Matt Penalber
 

〇Doug Marshall vs. James Irvin
 
 

 
上田 馬之助(うえだ うまのすけ)


(天保5年(1834年) - 明治24年(1891年)4月1日)。鏡新明智流剣術の幕末三大剣客といわれた桃井春蔵「士学館」の弟子。別名、上田馬之丞、上原馬之介、植原右馬之助。遠江国浜松藩出身。慶応元年(1865年)9月3日に銀座で天童藩の織田家の師範役中川俊造(中島一郎)と伊藤慎蔵を切って名をあげた。明治維新後に警視庁撃剣世話掛となった。明治8年(1875年)3月25日榊原鍵吉と兜割試合を行なうも兜を切り割れず敗北。

 
 

 上田馬之助は桃井春蔵の高弟であって、維新当時の名人であったが、その頃は矢張り武者修行が流行し江戸の剣客も九州を修行に廻ることが多かった、そうして薩州の鹿児島に来て見たが流石に江戸仕込の名剣客、薩摩には手にたつものが無かった。

 ところが日向の国に天自然の剣客に吉田某というものがあった、われこそ上田馬之助を打ち込みくれんと鹿児島へやって来て上田に仕合を申込んだ、上田は快く承諾して翌日城下鍛冶屋町の某藩士の庭上で仕合うことを約束した、当時薩摩の剣術は道場というものがなくて荒っぽい修行をしたものである。

 上田と吉田之の仕合のことが忽ち城下の評判となると、後の隆盛西郷吉之助、後の桐野利秋、中村半次郎、有村治左衛門も見物に来たそうである、その他見物山の如く押しかけていた。

 やがて相方庭に出ていざ仕合の用意となると馬之助は面小手と胴とをつけ竹刀を拷えて出て来たけれども、吉田は素面素小手でただ太い竹刀を携えたのみであった、それを見ると馬之助が吉田に向って、

「貴殿はどうしてお道具をつけられないのですか、お道具がなければ立合いは出来ません」

 といったところが、吉田は豪然として、

「貴殿こそ他国のものであるによって御存知が無いと見えるが、我が天自然流と申すは一切の道具を身に附けず、素面素小手で打合うのが習いでござる、御身はお流儀上道具をおつけにならるるとも差支えないが拙者の身体は鍛え上げて|鉄《くろがね》の如くになってござるにより頭でも腹でも勝手の処をお打ちなされ、竹刀ぐらいが当ったからといって痛いと思うような拙者ではござらぬ」

 と軽蔑面に答えた、馬之助は元来謹み深い男であったけれども、この広言を憎いと思ったらしく、

「いや、天自然流のことは拙者も予て聞き及んでいる、先頃も江戸表に於て千葉栄次郎が熊本細川侯の藩中であるところの剣客と仕合を致したが、先方が貴殿同様道具を用いない為に栄次郎も当惑いたし、わざと小手を三本軽く打ち込んだが、栄次郎の腕の冴えをもってその人は手の骨を挫いて使用が出来なくなった、今貴殿の身体が鉄だと仰有るならば、拙者が竹刀はずい分その鉄をも砕くでござろう、念の為に拙者が竹刀の働きのほどを御覧に入れ申そう」

 といって家の者に最も丈夫な竹の古胴を貰いうけてそれを庭の大木に巻きつけて云うことには、

「如何に吉田氏、この竹胴は竹も太く、拵えも丈夫であるのに隙間なくこの大木に巻いてあることだから普通では容易にこの竹が砕けるということは無い筈であるが、今拙者はこの竹刀を以てこの竹を砕いてお見せ申そう、若しこの竹が砕けたならば御身も道具を附け給え、貴殿の身体は堅いと仰有るけれどもこの竹胴より堅いことはござるまい」

 といって太くもあらぬ竹刀を以て馬之助が突立っている、吉田はまさかこの細竹刀であの竹胴が砕けようとも思わなかったから、

「よろしい、見事貴殿があの竹胴を砕いたならば拙者も道具を附けるであろう」

 と約束したが、馬之助、

「えい」

 と一声軽く打ち込んだと見えたが近寄って竹胴を験べて見ると太い竹が三本程中から折れていた、吉田もこれを見て胆を冷したが、馬之助は尚一枚の四分板を借りて来て立てかけ、先革の附いている竹刀で、えいと突けば、槍で突いた如く板へ穴があいて竹刀の先きは少しも破れなかった、そこで、

「如何に吉田氏、御身の咽喉の皮が厚いと云われたとてこの板にはかないますまい、若し拙者の竹刀が当って怪我があるといけないから是非とも道具をおつけなさい」

 と、遂に吉田に面小手胴を附けさせてしまった、それから相方立合って二三番仕合をしたけれどももとより馬之助の敵ではないから吉田はさんざん敗北したが、強情の代りに邪念のない人であったから馬之助の技量に感心し、それから鹿児島に逗留し、ついて剣法を学ぶことになった。

 上田馬之助が鹿児島で竹胴を砕いたことはその頃評判の話で維新の後に至るまで

剣客仲間の話の種となったが、竹刀で板を穿き抜くこともまた馬之助の大得意であった、明治十九年まで日本橋区松島町に馬之助の弟弟子に当る三輪仙之助が剣術の道場を開いていたが、馬之助も時々助け稽古に来て人に拝見を乞われて板を貫いて見せたことがあった。

 彦根の藩中で児島某という剣客は彦根の虎と称せられ、虎が出るといえば相手に立つ者がないほどの達者と云われた、その虎とあだ名をされたのは、黒塗の革胴に金蒔絵でもって大きな虎を一杯に描き出し人と仕合をする時はたといほかの処は打たれてもその胴へは決して竹刀を触れさせないと平常自分も自慢にしていたのである、尤も一度竹刀に打たせれば金蒔絵がはげて竹刀のあとが残るのだからこの人は生涯この胴を人に打たせることはなかった、併し、上田馬之助と立ち合う時に限って決してこの胴をつけないで他の胴を用いたことから馬之助から、

「児島さん、虎胴はどうしました」

 とからかわれた、児島の腕はその時分並ぶものが少ない程であったのに馬之助にあうと子供のようにあしらわれたのである。

 この上田馬之助の云うことには西郷吉之助なども大いに教えられたとのことであるが、有名なる松田の三人斬というのは当時一代の視聴を驚かしたのである。

 それは銀座の尾張町に松田という料理屋があったがなかなか安くて勉強するから評判であったが、上田馬之助は或時この辺を通りかかって昼食をしようと松田の楼上へ上ったが、客はなかなか混んでいた、けれども上田はただ一人であったから少し空いた席につき酒も飲まず、ちょっと食事をしただけで帰ろうとすると丁度向うの隅にいた三人の武士がその先きにいた子供連れの商人に向って俄に大声をあげてどなりはじめた。

 その事の起りというのは子供が刀を踏んだとか踏まないとかいうことであったが、何分酒の上のことといい、その時分の荒っぽい武士の気風で商人が平あやまりにあやまるのを聞かず刀を抜いて切り捨てんばかりの意気組であった、武士の乱暴は当時珍しいことではなかったが、何しろ客がこの通り混んでいる二階のことではあり、他の客も驚き騒ぎ女中達も共々詫びをしたが三人のものは酒気にかられ愈々暴れ出した。

 上田馬之助がその武士の面を見ると一人は天童の織田家の剣術の師範役某というものであった、他の二人はその門弟でもあるらしかった、上田は剣術仲間でその師範役とは二三度面を合せたこともあるのだから衆人の難儀を見るにしのびずその傍へ進んで行って仲裁をした。

 先方の三人は何者が出て来たのかと見るとこれぞ桃井の小天狗といわれる上田馬之助であったからどうも相手が悪い、今までの勢いも何処へやら猫のように小さくなってむにゃむにゃとしてしまった。

 助けられた商人は厚く上田に礼を云い子供を連れて逃げるように立去ってしまったが、多数の客のうちには上田馬之助を見知っているものもあって、

「あれは名代の桃井の小天狗上田先生だ、あの先生にかかっては世間並みの剣術使が五人や十人束になったとて叶うものではない、だからあの三人も黙ってしまったのだ」

 斯ういう私語が聞えたものだから師範役はじめ三人は無念の色を示して居たけれども、何しても相手が上田だから手出しも出来ず、そこで上田は自分の席へ戻って来て勘定を済ませ三人にも挨拶をして立ち上り、何心なく二階の梯子段を二段目まで下り、今三段目に片足を卸そうとする途端、諜し合せた三人の者は一度に抜きつれて上から不意に斬り下した。

 その時上田馬之助は梯子段の中程でヒラリと身をかわしたが、

「卑怯者奴」

 と云いながら、躍り上って師範役を抜き打ちに払ったところが腕の冴えは恐しいもので大の男が胴切りになってしまった、これはと驚き門弟が後ろから斬りかかるのをふり向きざまに顔の上から顎の下まで一刀に斬り下げ返す刀で今一人の細首を丁と打ち落した、その働きの素早いことほんの瞬く間に三人を仕止めてしまった。

 二階にいた客達はそれ喧嘩だと逃げようとしたが梯子段ではじまったことなので逃げ路を失っていよいよ立騒ぐころには早や勝負がついてしまって驚いたり呆れたりするほかはなかった。

 それから馬之助は家の者を呼び町役人を呼んで検視を待っていたが、検視に来た役人もその斬口の見事なのに驚き早速見舞に来た馬之助の門弟達と共に感歎しておかなかったということであるが、この三人の死骸は皆んな一刀ずつの斬口で二刀まで加えた跡はなく殊に師範役の胴斬は勝れて見事であったということだ、何しても理非曲直分明なことで見物人が皆保証人であったから

別段咎めがなくて済んだ。

 この馬之助は明治になってから警視庁や宮内省に仕えたが、明治二十年頃七十余歳の長寿で亡くなった。 (西郷隆盛一代記