川谷家のDNA | なにわのブレッソンのブログ

なにわのブレッソンのブログ

基本的にはFacebookに投稿していますが、やっていない大阪の知り合いや友人に読んでもらえるよう、アメブロにリンクを転載しています。主に東北の震災や移住後の生活を綴っていますので、関心ある方はお読みください。

 

 

 

休むことが苦手で動き続けてしまう性分は、60を過ぎてから分かったアスペルガーの特性だけではなく、親父から受け継いだ遺伝子だと改めて気づいた一週間。幼い頃に父親を亡くし、たばこ屋を営んでいた母親に女手ひとつで育てられた親父は、夜間高校卒業後、軍隊に取られ満州で終戦。シベリアで捕虜生活を送った後に帰国し、兄の勤める部落産業の皮革関連工場に就職。父方の兄妹は皆同和地区の市営住宅に住んでいた。疎開先の韓国で生まれ、二十歳で終戦を迎えた後に、一家で引き上げてきた俺の母親と見合い結婚。本業の給料だけでは暮らしていけず、家族を養うために毎晩、新聞の印刷会社でも働き、週末はヤカンを作るアルミ工場でアルバイト。家には夕方、飯を食いに帰って来て風呂に入り、1時間ほど仮眠するだけで出て行くという、文字通りの貧乏暇なし・働きづめの毎日だった。俺はそんな父親の背中を見ながらも10代の頃は、柔道とバイクとバイトに明け暮れ、年にわずかの休みの日はツレと遊び歩き、家に居ることがほとんどなかったために、父親と話した記憶がほとんどない。顔を合わすのも年に数えるくらいだった。そんなおやじが二十歳の時に急逝。当時は過労死という言葉がなかったと思うが、家に帰って仮眠中に心不全で亡くなった。当時、夜学の大学生だった俺は家庭教師のバイトから下宿先のアパートに帰って、大家さんが書いてくれたドアの張り紙で知り、慌てて実家に帰ったが死に目に会えなかった。55歳だった。そんな両親の姿を見ていた俺は、55まで生きたらあとの人生はオマケくらいに思っていたので、東日本大震災でボランティアに通った東北への移住は何にためらいもなく決めた。その後の生活はご覧のとおり。体調崩すと皆さんは心配してくれるけど、遺伝子が休ませてくれないので仕方がないと諦めてください(笑)。先日、川谷家の先祖代々の墓を墓じまいするとの連絡があった。コロナ禍の折り、大阪に帰ることもできず、弟と従兄弟に任せて法事が無事終了したとの報告を受けた。さみしいけどこれも時代の流れ。あさっては母親の命日。生きていたらおやじは100歳、おふくろは95歳。たらればの話しはしないけど、昭和も平成も遠くなりました。久しぶりに昔書いた本を読み返して思ったことを、とりとめもなく書かせていただきました。ご精読ありがとうございます。

 

 

 

 

#風の宿つむぎの家 #年中夢中 #孤独死 #遺伝子 #貧乏暇なし #めぐり愛つむいで #星湖舎

 

続きは右上「f」のアイコンをクリックし、Facebook投稿記事で。