①のアップから随分と間が空いてしまいましたが、浅草近辺(向島~吉原)の街歩きの様子の続きです。
 
その①でアップし忘れたスカイツリーとアサヒビール(ちなみにその間は墨田区役所)の写真。
アサヒビールのビルはすっかり金の💩ビルとして有名になってしまったけど、
今回金の💩のお話をお聞きしました。
当初の計画では、あの💩は縦に3個有ったそうです。が、後ろのマンションの日照権問題で1個になってしまい、しかも縦向きが横向きになってしまったそうです。
で、今のようなフォルムになったそうです。
 
因みにあの金の💩は
アサヒビールのHPからによると

 

「聖火台の炎」です。

金色の炎は「新世紀に向かって飛躍するアサヒビールの燃える心」を表わしています。設計者は世界的に有名なデザイナーである、フランス人のフィリップ・スタルク(PHILIPPE STARCK)氏です。

アサヒビール100周年の記念事業の一環として、1989年10月に竣工いたしました。

 

だそうです。

 
さて、少し前にアップしたその①では隅田川の東側の街歩きの様子を書きましたが
橋を再び渡って西側に戻ってきました。
 
江戸時代には隅田川から吉原に船で行くために賑わっていた
山谷掘跡を歩いて吉原に向かいました。
 
ところで、地名として、吉原?新吉原?どっちなの?っと思っていたのですが・・・

 

新吉原は、1957 年まで浅草の近くに存在した、日本最大の遊郭(ゆうかく)です。新吉原は 吉原遊廓 (よしわら ゆうかう)や単に 吉原(よしわら)と呼ぶ場合もあります。

新吉原は単なる花街ではなく、上流階級や文化人の社交の場でもありました。そのため、当時の文化の最先端の場所でした。

マンガ「鬼滅の刃」の遊郭編の舞台となったのが新吉原です。そのため、新吉原の名前をすでにご存じの方も多いかもしれません。

~東京下町ガイドより~

 

吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された、江戸の遊廓である。 当初は日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ

~Wikipediaより~

 
 
江戸時代の浮世絵等で見かける
見返り柳
があまりにショボくてびっくりしました。
 
よし原大門の跡
当時はここが唯一の出入り口で
遊女の逃亡を防ぐために厳しくチェックしていたそうです。
周りには「お歯黒どぶ」という堀がはり巡らされていて、厳しい警護?警備?体制だったそうです。
 
吉原は、前述したとおり当時の最先端の文化の場所で、ここよし原大門の手前に
来年の大河ドラマの主人公蔦谷重三郎(江戸のメディア王と呼ばれているそうです)の版元があったそうです。
今では普通の家が建ってましたが・・・
 
吉原弁財天
 
最近では鬼滅の刃の聖地巡礼でここ吉原(新吉原)を訪ねる若者も増えているそうです。
 
要は
吉原という場所は多くの人が集まり新しい文化が生まれる注目の的!的な場所だったんですね。
単なる遊郭では無い!
エンターテイメントの最前線的な場所だったんだろうな!
 
っと、納得できた街歩きでした。
 
ところで、
吉原、交通の便がめっちゃ悪い!帰り道非常に苦労しました。タクシーがビックリするくらい沢山居たのは公共の交通機関が不便だったからか?!と慣れない場所で寒空の下、バスを待ちながら思いました。
 
今回の街歩きのガイドさんは女性の落語家さんで、本当に話上手で物凄く楽しめました!
 
来月(2月)はエントリーしたまいまい東京の街歩きは抽選で全滅だったので、来月はまいまい東京はお休みです。