『本は、これから』
最近は、読み終わった本のコトを記事にするのが面倒くさくなってきた。。。
この本を読み終わったのは確か昨年12月の頭だった。読み終わってから1ヶ月ほど経ってしまった。
記事にするにしても記憶がアヤフヤだ・・・・・
電子書籍の本格的な登場によって変わりつつあると言われている本とその周辺の物や出来事について、37人の評者が語っている。
いったい何が変わるのか? 何が変わらないのか??
●電子書籍と紙の本の住み分けができてくるだろう、両者の「重み」や「価値」に異なりが生じるだろう、
などと予想する人。
●先(将来)のことなど自分には関係ないものだから、電子書籍に対してほとんど興味をしめさない年寄り。
●今まで読んできた紙の本について、ただひたすら郷愁を語る人。
●電子書籍に対して何だかんだイチャモンを付けて、悪者に貶めて、頑なに紙の本だけを擁護する者。
● ・・・・・・・・・・・・・・・・・etc, etc・・・・
まァ、いろんなことが言われている。。。 いろんな人がいる。。。
さて、ここからは私見を思いつくままに羅列する。 メモ。
●文字にしろ映像にしろ音にしろ、記録のためのデバイスは構造も材質も単純なほうがいい。
一般的には単純なモノほど劣化の進行速度が小さく、情報・データの長時間の保存が可能。
この本の中でも誰かが言っていたが、洞窟に描かれた壁画が良い例。
だが、単純過ぎると情報・データを記憶する容量が少なくなる。
容量を増やすためにはデバイスにひと工夫する必要がある。
記録を電子化してシリコンに閉じ込めるのは効率的。そういった点で、電子書籍はイイ。問題は時間。
●情報と知識は異なる。前者はデータの集積。後者はそれらを体系化したもの。
どちらかというと電子書籍は前者で、紙の本は後者のような感じ…かとも思える・・・
一方で、1冊の本を読んだだけでは判らなかったコトも、同分野の複数の本を読んでみたら理解が深まり、
知識化されることもある・・・と、見方を変えれば、一冊の本だって単なる情報の断片にしかならない。
ブログなどまさに情報の断片の典型。
結局、情報・断片であるのか、知識・集積であるのか、は、デバイスによらない。
●本に書(描)かれたもの(コンテンツ)と、それを読む人間とのインターフェイスの問題は?
紙の本の場合、読書中には本の厚みや紙の手触りなどがインターフェイスとして、コンテンツと同時に
読者に自然と運ばれる。
今のところ電子書籍には、そうしたインターフェイス的な機能が少ないような気がする。
だが、そんなものもいずれはどうにかなるだろう。
紙の本でできるものは全て電子デバイスでも可能となるだろう。
逆に、紙にできないことが電子デバイスで可能となる新しいモノやコトが出てくるだろう。
●数百年後、数千年後まで、情報・記録・コンテンツを持ち越す方法・システムさえ確立できれば、
電子デバイスが紙の本を圧倒するのは目に見えているような気がする。
●かつての記録デバイスだった巻物を、現代の一般人が日常的には見ない・読まないのと同様に、
いずれは紙の本も同じ道を辿るような気がする。
だが、完全に電子デバイスに移行するには、数十年単位の時間が掛かるだろう。
最後に、本書に対して文句を一つ。
●どこかの大学の文化人類学者だか批評家だかの書いている『本を還すための砂漠』という文章は全く以て何を言っているのかわからない。日常ではほとんど使わないであろう言葉を多用したり、哲学用語らしきカタカナ表記の単語を漢字にあてていたり、無理矢理な比喩を使ったり。
ともかく他人に解り易く書こうという意識みたいなものがまったく感じられない。難しく書く事を良し、とする、最近では珍しい、久しくお眼に掛からなかったヤカラが居たのには驚いた。
これ、新書だろ! 新書を書くのに適切な人選だとはとても思えない。