『マーロウ最期の事件』 | 本だけ読んで暮らせたら

『マーロウ最期の事件』

『フィリップ・マーロウの事件 Ⅱ 1950-1959』
バイロン・プライス/編、 稲葉明雄・他/訳、 早川書房(1990)

この単行本には、フィリップ・マーロウを主人公とした11の短編が収録されている。

そのうち10篇の作品はレイモンド・チャンドラー以外の作家がパスティーシュとして書いたもの。

チャンドラー自身による作品は、11編目に掲載された 『マーロウ最期の事件』 のみ。私はこれが読みたくて、この本を Book Off で買ってきた(105円なら安いものでしょ)。



この作品こそが、チャンドラーが書いた探偵フィリップ・マーロウもの唯一の短編である。

いろいろな雑誌に掲載される際、原題は何通りかに改題されたらしいが、現在は 『 The Pencil 』 で知られているらしい。

訳題は、改題されたいくつかの中の1つ 『 Philip Marlowe's Last Case 』 を採ったものなのだろう。



久しぶりにマーロウものを読んだが、文章にチョット違和感があった。

この作品の翻訳が稲葉氏によるものだからなのか?

マーロウものの長編の方は清水俊二氏の訳で定着しているし、実際に私が読んだのも、第1作目の『大いなる眠り』以外は、清水訳によるものだ。ちなみに『大いなる眠り』は双葉十三郎氏訳ネ。


普段、同一著者の作品に対する訳者による微妙な違いというものに、さして注意を払わない私だが、翻訳者による違いなのかとも思い、『プレイバック』を引っ張り出してきて、清水訳と稲葉訳とを比べてみたが、どうやらそれほどの差異はなさそうだ。少なくとも、私ごときには両者の差は良く判らない。


では、何処がどう違うのか?・・・・・ハッキリとした説明はできないのだが・・・・・、

最近の翻訳文と20年近く前の翻訳文が違うからなのか? それとも、そもそもこの作品の舞台となっている時代と、最近のミステリ作品の時代による違いが反映されたものなのか? マーロウが活躍する時代のミステリ、ハードボイルドが古臭く感じられるのか? 



なんとなく文体の調子に違和感はあったものの、内容自体は紛れもなくチャンドラーによるマーロウだった。

相変わらず、拳銃を突きつけられようが減らず口を叩き、自分に対する罠も軽く撥ね退けてみせるヒーローがそこにいた。


もう、すでにチャンドラーは古典なんだな~と、想いを馳せながら、天気の良い休日の午後に缶ビールを飲みながら読む。

こういう読書はイイね。