私が長年付き合ってきた『数学』には『公理』というものがある。簡単に言うと公理とは理由をつけず誰もが認める事柄のことで,それを元に論理的に帰結される『定理』などから事の正否を論じる。それが,いわゆる『証明』である。

 

 すごーく専門を極めている人の中には,『誰もが認める公理』に物申す立場もあるが,ここでは高校教育までくらいの数学を前提とさせていただく。

 

 例えば,中学校で学ぶ『図形に関わる証明』は,ギリシアで紀元前から行われていた。「なぜ?」という問の答えには諸説あるが,有力な説はこうである。

 当時ギリシアにはポリスなる都市国家が建設された。最も古い民主国家のモデルと言われている。民主的な市民生活には議論が必要で,その議論の中では他人を納得させるロジックが不可欠である。そういったやり取りの訓練として『証明』が生まれたというのである。

 

 

 私の愛する『哲学』は真理を追究する学問だが,それにも『範疇』というものがある。昨今,『範疇』は様々な意味で用いられているが,哲学においては真理を究める上での基本的な概念とでも言うべきものだろうか。数学の『公理』とは少し異なるが,範疇なしでは議論ができず種々の概念が構成できない。その点では数学の『公理』と似通っている。

 

 この前置きで読む気の失せた方もおられるだろうが,最近は開き直っています(笑)。シリーズとして,何回かに分けますね。

 

 つまり,『正論』というのは,『公理』や『範疇』の如きものを出発点あるいは拠り所として論理的に帰結される主張を指す。と,私は考える。

 

 ということは,もとになっている拠り所が異なれば,議論は当然かみ合わない。日常では,そんなことがしばしばある。絶対的な『正論』というものは滅多にないのだ。よって,古代の高名な哲学者は,皆口をそろえて『数学』を高く評価している。

 

 

 例えば,私が「偶数でないのは?」と質問したとする。少し雑な問い方だが,多くの方は「奇数である」と答えてくれると思う。それは,私が拠り所としている範疇の如きものを暗黙裡に理解しているからだ。

 「いや,カブトムシは偶数じゃないよ。鉛筆とかも,・・・」という人は滅多にいない。偶数じゃないどころか,そもそも数ですらない。通常は,「偶数・・・」ときた時点で『整数』を基本として話をしているととるのが,良識のある人物の態度である。

 

 現実には,ここまで極端ではないが,話の範疇を微妙にずらしていき,相手を煙に巻く輩もいたりする。私の経験では,理数系ではない話が上手な人に多い。一人前の理数系の人は『公理』という語を知っているから,そのような行為は恥ずべきことという認識を持っている。

 

 数学では,『公理』から出発して,論理的に結論されたことだけがマルであり,他はバツである。哲学においても,『範疇』から構成された概念こそがマルである。

 

 本来『正論』は正しいからそう言うのであって,言い返せないことで落ち込んだり傷ついたりする必要はなく,爽やかに負けを認めれば良いだけのことである。

 

 ただ,今日のまとめとして言っておきたいのは,人と議論をするときには,お互いが何を範疇の如きもの(拠り所)として主張しているのかを把握し合うことが最も重要だということである。

 

 『正論』は,絶対的なものではない。拠り所を理解し合うことが大切である。

 

 つづく。