学歴に何を求めるか。なぜ学歴を求めるのか。

 

哲学された方は、案外少ないのではないかと思っている。

 

子供の頃から、旧制仙台一中から四修で旧制第二高等学校を経て旧制の東北帝国大学へ進学した叔父共を眺めていたけれども、この世代本人たちにとっては単なる成績優秀の印であったと感じる。抜山四郎研究室というところに兄弟そろって所属したのだけども、実はネット上に同窓会組織の写真が転がっていて写っていたりする。

 

祖父は戦前から宮城県庁に謄写版業者として出入りしていたが、賢い人ではあったから、この戦争は勝てないなど色々聞きこんだものを元に考えて、成績優秀だった叔父たちをすべて旧制高校から大学進学させた。しかも、工学部へ。普通ならば、成績優秀な生徒は旧制中学から陸軍幼年学校や海軍兵学校に進むという時代にもかかわらずだ。

 

祖父から直接聞いたことはないが、周辺の話を聞くと、結局のところ、目的は徴兵忌避。で、軍事教練以外では軍人と関わることもなく、大正世代なのに徴兵免除されて無事生き残った。戦時中も、本当に大学で勉学と研究だけをしていたらしい。

 

大正世代の伯母もいたが、この伯母も成績優秀だったから、旧制第二高等女学校から女子師範を経て東京高等女子師範学校を卒業し、仙台市で小学校の先生になった。しかも、最後まで管理職はお断り。教えるのが好きなのだと本人から聞いたことがある。珍しい経歴だから、仙台の方が読んだら「ひょっとしてHC先生?」という方がおられるかもしれない。大正世代女性に多かったが、釣り合う年代の男性が多く戦死していた関係で、結局最後まで独身だった。東北大学は昔から女子学生を受け入れていたはずだが、叔母が一番年上だったし徴兵の可能性もなかったから祖父はたぶん大学なんて思いもせず、学校の先生になれということだったのだろう。

 

自分の親のことを書いてしまうと、それこそ世間は狭いので書かないこととするが、つまるところ、周囲は田舎の高学歴集団で、それも「仙台にいるから東北帝大」だったので、当の本人たちは、「東京に住んだら東京帝大行くよな。」という考えの人たち。このあたりは、今の高校生でもあまり変わらないような気がする。

 

ちなみに、「100点取って落ちる試験はない。」と語ったのは、年下の方の叔父だ。

大人になってから見たこの叔父の手書きの字が私の字と瓜二つで、最初に見たときは字の癖は遺伝に依存するのかと驚いた記憶がある。

 

親の立場として考えると、明治生まれの旧制中学卒の親が自分の息子たちを旧制大学まで上げたのは、正真正銘、子供の生命を守るためだった。

 

上の叔父は、大学に行かなければ徴兵されていたし、もちろん文科学生なら学徒出陣の対象だった。

下の叔父は、工学部に行くまでもなく、徴兵年齢に達する前に戦争が終わったから助かった。

 

叔父たちの場合は、正に勉学が命を助けたと言える。

 

こういう例を知っているから、私自身学歴の意味については徹底的に考えたし、同等の学歴の相手とは会社の先輩後輩、社外の人間関係など、いろいろな人たちと議論もした。

 

議論の結果、私の周囲では、「今に続く戦後日本では、学歴とは選択の機会と自由を得るために有益な資格。」ということでおおむね意見は一致している。

 

私自身は、「学歴とは、お茶の師範の免状と同じ。」振り回して意味があるときは、振り回したらいいくらいのものと思っているし、「学歴次第で、天から降ってくるチャンスの数が露骨に違う。」と言っている。

 

みなさんは、どのようにお考えだろうか。

 

一度、お子さんとも話してみたらいいかとおもう。

 

アドミッションポリシーを書くのにも役立つかもしれない。

 

なお、学歴の目的が、学歴のための学歴となった時点で、学歴厨だ。

 

家人から、アメブロ界で巻き起こっている茨木高校の騒ぎを教えてもらってざっくり眺めたが、自分という人間さえきちんと確立して、都度、ダメなことはダメと相手に伝えることができれば、終わりではないかという気がする。

 

ただし、相手さんが、一部感覚が麻痺しているかもしれないから、都度都度確認したほうがよいだろう。

 

なお、この記事、個人情報とはいっても、もはや成仏済みであったりほぼ成仏されている方の話だから、これだけで私を特定することはできないだろうと思って書いている。