.。o○(今日から通院とガス抜き会が交差します)
疲れちゃってしばらく書けないかな
思い出すのが苦しい気持ちは一山越えました。
通常モードになりつつあります。
※ 今日の記録は、ショックな表現も含まれています。閲覧注意です。
記録として退院後サマリーしかなかったので、「こう思った」という体験談となっています。
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当日は酷い片頭痛で起床。
頭部MRIなので食事もOK。
片頭痛薬を飲んでよしとのこと。
カブれた腕の血は止まったが腫れている。猛烈に痒かった。
呼ばれたのでMRI室へ。
歴史のある建造物ということで保存作業の進む本館に、MRIはあった。
ICUのすぐ近くだった。本館は道路に面しているので救急医療を集中させているのかな…
と思った。
わたしの腕を一目みて
「あれれ、漏れてる…すみません痛かったでしょう?カブれちゃったんですね、病棟で言ってくれれば良かったのに」
サクサクとルートを取り直して、ネットから包帯に換えてくれた。
ステロイドが身体に入らなくなって2か月近く。
この頃には採血に苦労されることはなくなっていた。
同意書に、アレルギーが激しく出ている時はMRIを受けられないと書いてあった。
「これぐらいのアレルギーは受けられますか?」
「大丈夫ですよ」
説明と同意を経て準備を開始する。
MRIはお昼寝時間。寝るモードまんまん。
準備の時間の間にもう寝ていた。
起こされて、ふわふわナースコール(MRIなので金属が使われていない)の説明を受ける。
アレルギー持ちなので、薬剤が入る時までは起きるようにしている。
薬剤が入った途端に、身体を一瞬で巡るのがわかる。
ああ…今回も、なにもなかったな。味がまずい…
3秒したぐらいでくしゃみが出そうになる。
こらえてこらえて、こらえてのデカい一発
「ガイーン」
これくしゃみ?こんなでっかいくしゃみ初めて…
よりによってこんな時に…
5~6回くしゃみが連続してしまって
もうダメだろうなあ…と思ったのでナースコールを握る。
「あーさん、大丈夫です、続けますよ~」
そうなんだ、このぐらいの揺れって平気なんだ。
そのあとくしゃみが30回ぐらい連続した。
その途中、腋と鼠径部が沸騰しているように熱いことに気づく。
熱い熱い !
その瞬間に「アナフィラキシーショックになったな」と確信しました。
すでに声が出しにくくなっているが、ガーン!!てなってて自分から外に何かを発信できない。
ナースコールを握るが
「大丈夫ですよ~」と何回も言ってくる。この間3分ぐらい。
なんども握っていたらやっとMRIを止めて集まってきた。
意識レべルを確認をしている。
「あーさーん、あーさーん、目を開けてください~」
「点滴止めて、針から抜いて」
「ルート取り直して」
「病棟に連絡して」
「人呼んできて」
首を傾けるぐらいはできた。目を開けても真っ暗だ。息苦しい。
アナフィラキシーショックで一番怖かったのは、このMRIにいる時間。
わたしはICU勤務だったので急変や救命の現場には慣れていた。
次になにが行われるかどんな物が用意されるのかを知っていたから余計な変なことに気づいてしまう。
MRIにはボスミン(アドレナリン)筋注を指示する医師がいない。
すべての医師がボスミン筋注を躊躇なく指示できるとは限らない。
ボスミンは鍵のかかっているところにあって、ここにはない。
アナフィラキシーショックは10分以内にボスミン(アドレナリン)筋注しないと、救命率が50%を切る。怖さしかなかった。
幸い、ICUがすぐ側にあるのを覚えていた。
リンパ節の燃え方からして今日のは秒を争う。
いま幸いしているのはこれしかない。
早くICUに移動してボスミン筋注してくれい
身体が腫れて(うっ血して)気道も閉塞、声帯も圧迫されて声が出ないことがわかった。
気道が糸みたいに急激に細くなっていくのがわかった。
まだMRIのスタッフは気づいていない。
今でもこの恐怖に勝るものはないと思っている。
この時から不思議と、意識だけが冴え冴えと澄み渡り、興味の赴くままモニターや酸素量や薬剤、スタッフの動き、隣の部屋の壁掛け時計を見ていたことを覚えている。
これ以上はない、という環境でアナフィラキシーショックになったのだ。
絶対に死なない。こんなに珍しいことない、よく観察しておこう。
ポララミンとガスターを点滴している。胃薬…?なんで?
簡易マスクで酸素5リットル。SPO2は91%
酸素や薬の投与って医師の指示がないとできないけど。ナースがしている。
MRIのナースって、こういう時のために指示書が出ているんだろうな。
モニターがなくて血圧はわからない。
MRIに応援を頼んだようだ。人がたくさん来た。
主治医も病棟医も研修医もいない。
わたしが副腎の予備能がないのにいつ気づくかな。
この部屋では電子カルテは見れないようだ。
10分経って「ICU運ぼう」になった。
はよ、ボスミン打ってくれい
すぐ近くのICUに移動して救命している。
閉鎖式酸素マスクでSPO2は98%まで回復した。
10分経った頃に初めてここでソルコーテフ200
(コートリルの点滴薬、コートリル20錠分)が入った。
わかるけど、はよ、ボスミン打ってくれい
アレルギーの炎症をポララミンで抑える→
収まらない→
副腎の予備能がない→
ソルコーテフ200→
イマココ←
その時、人垣をかき分けて足元から大声を出す主治医。
主治医「あーさん、あーさん、家族に連絡したけど連絡取れませんでした。婚約者さんに連絡したけど仕事終わってから来るって。わたしはちゃんと伝えたんですけどね。変わってますね~。ねっねっ」
と相変らずの言葉遣いで去っていった。
電子カルテに残すのに必要な儀式なんだろうか
言葉もマズいが、スタッフの手を止めてまで患者にいま言うことではない
わたしにねぎらう言葉なく去っていった。
周りのスタッフはその時だけシーンとした。
こんなことで手を止めずに、はよボスミン打ってくれい
研修医が右隣にきて
「あーさんすみません…すみません…」
と泣いている…
自分の体のせいでなったアナフィラキシーショックだし
MRIの同意書は書いてるし
研修医にはなにも関係ないけど
医療従事者って患者を助けるつもりでスタッフになる
患者が傷つくことが死ぬほど辛いのだ
わかるけど、あなたのせいではないよ…
SPO2 98% 血圧37/62
この時、普段から血圧が低いので、わたしのケースではまだOKということをわたしだけが知っていた。
「あっちのICUいくよ」となった。結構な距離だった。
ほかにERでもあるのかな。ここでは足りない何かがあるということ。
気管切開の可能性か。
なんでもいいからはよボスミン打ってくれい
別館のICUについたらマツエクがちょっと長すぎるきれいな小柄の医師が待っていた
「あーさん聞こえますかー息をしてくださいー目を開けてー」
「移動します、1・2の…」
「新しいルート取って」
「酸素10ね」
「血圧読んで」
「点滴…で落として」
「これじゃないよ」
「ボスミン筋注するよ、左で」
(ボスミン!キターーーー(゜∀゜)ーーーー!!!)
ショートボブのスタッフが美しい段取りで筋注した。
ボスミンは最初は太腿に打ちます。
ここが一番リスクがなく少量で効果が最大限にに活かされる場所。
外側広筋というところです。
場所は知ってるけど、測り方がわからない。
しっかり手で測ってから場所を選定して打ったが、速すぎて覚えられなかった。
こんな角度から見れるなんて素晴らしい。
ここの医師だけが、意識がなかったはずのわたしに耳元でこれからすることの「説明」をしている。わたしの頭元でわたしの顔色や表情を見ながら話しかけてスタッフに指示をしている。
そして「寝ないで、起きて目を開けて息を吸って」とわたしに指示をしてくる。
そう、寝てしまいたくなるんですよね。
アドレナリンすげえ
人間て、こんなものを身体から出せるのだ…
即座に楽になった。
閉鎖式酸素マスクは、酸素が漏れずに体内に入ることから、自発呼吸ができる患者の血中の酸素不足に使用される。
いままで知らなかったこと。
SPO2 が98%になっても患者の苦しさは止まらない。
組織に酸素が届いているだけで呼吸苦に変わりはなかった。
この後少し安定したのか、ショートボブが
「どこそこの中華総菜めっちゃうまいよ~今度買ってきてあげるよ」とか
「そんならもう帰りに買ってこうかな~」
とスタッフもこたえていた。
急変していても、死にゆく人も、人間の聴力は最後まで保たれる。
看護も介護も教科書通りだった。
ICU勤務していた時もこういうナースをたくさん見てきたけど。
患者になって聞くと気分のいいものではなかった。
その後マツエク医師が
「この人なに飲んでるの?上がってこないよ」
「βブロッカー飲んでる?確認して」
「担当呼んできて」
このあと、上の血圧が50台の半ばだったところを見たのが最後であとは何も覚えていない。
退院後サマリーを読むと
このあともう一回ボスミン筋注して血圧が戻ったらしい。
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翌日、マツエク医師と話した。
「疲れたでしょ」
「意識がしっかりあったんですよ」
「なかったよ」
えー…?
その後、ポララミンとガスターを再開した時に呼吸困難感が現れ、そこでポララミンかガスターにアレルギーがあるのではないか説が出たが、医師たちはそんなの見たことない、と口をそろえて言った。あり得ないと。
いま、抗ヒスタミン剤は山ほど飲んでいるし、ムコスタも飲んだことがある。
謎の症状でした。
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ICUを出る時にはもう歩けなくなっていました。
ICUから病棟まではとても遠い。介助されて帰る間に
歩けなくてここには通いきれないから、家の近くの病院に紹介状を書いてほしい
しっかりしたデータを持って行きたいから、カルテの開示をしたい
このことを伝えた。
ICUから戻ってすぐに。覚えているできごとをすべてメモした。
その後はぐうぐう寝た。
病棟医が来た。
「カルテの開示はなぜするのですか…」
「地元が遠いので、もう歩けないし。通いきれません。違う病院に行くなら、しっかりとしたデータを持っていたい。検査入院などそうそうできませんし」
「すぐにはお渡しできないことになります」
「一か月ぐらいですか」
「教授会にかけさせていただいて。それが大体三か月かかります。そこから初めて事務請求していただくので…最速で4か月かかると思います」
「…?」
カルテの開示にいちいち教授会?
カルテの開示は大抵どこの病院も一か月です。
ここでは一体なにが起きてるの…
教授会からOKが出たら直接電話をもらうように約束しました。
カルテの開示ができるまで、紹介状も今は書けないとのこと。
理由は「決まり」だから。
何か月か通うしかなくなりました。
通うにあたり、初診時の医師の対応にとても辛い思いをしたことを話しました。
通うなら担当医を変えてもらいたい。
病棟医の先輩にあたる方に担当を変えてもらいました。
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退院の日までわたしの主治医だった人が書いた退院サマリーをもらって退院しました。
「入院目的」のところに
主治医
「救急要請、当院に搬送され、ストレス下にも関わらず、コルチゾールが5.2μg/dLと低値であることから、副腎皮質機能低下症が疑われた。精査目的に当院当科に入院した。」
と書かれてあった。
どこまで恐ろしいんじゃわれ。
救急搬送された初診時に、
主治医
「あなたは病気ではありません」
と帰そうとした医師が手をひるがえしてこんなこと書いてる…
薬を処方された経緯も含め、完全に医療不信が完成しました。
※ この医師は、今でもT医大の内分泌内科の初診担当です。
すでに講師。辞めなければ必ず准教授までにはなるでしょう。
※2024/1/22現在、当時のN県のN大学派閥の人たちはいない様子です
今はY県のY大学派閥のしっかりした内分泌の医師が頑張っている、、と医療従事している筋から聞きました
退院は外の駐車場まで車椅子で。
もう歩けませんでした。
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退院サマリーにはアナフィラキシーショックでICUに転科したことも記されていました。
意識がないとされていたが、ICUの血圧はわたしのメモと同じだった。
確かに、なぜ患者が正面からモニターを覗けたのか…自分でも不思議な角度でモニターを見ていた。不思議体験でした。
迎えにきてくれた家族と婚約者にも聞きました。
主治医
「あーさんが薬のアレルギーになった。命を落とすようなことはありませんけど。今から病院に来られますか?」
という内容で連絡をしていたそうだ。時間も合っている。
わたしがメモに残したことと大体は合ってるみたいだな。
自宅は階段の五階。昇るのに大の男二人に手伝われても20分かかった。
アナフィラキシーショックの体験から、医療ドラマを見ていて
意識のない患者に頭部造影剤を使っているところを見ると
ゾワゾワ…ときます。
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