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みつおのブログ

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破れたジーパンOk!むしろファッション

べたべたで寝起きの様な、あっちこっちにはねている髪形OK!

どこでもかんでも入れ墨OK!ファッション

 

う~ん、どこまでゆくのか、自由、フアッションの進化変化

私は、以上の3点どれも理解できない派である。ひょっとして自分は固定概念の塊で、古い頭の頑固親父になってきているのかも?(若い子には相手にされないパターンか?それでもしかたない)私にとっては、とにかくわからない時代に突入している気がする。

 

又、わからない時代は、ファッションの様な見える部分だけでなく、内面的な倫理道徳観においても変化進化が目立つ、私には娘、孫もいてることもあり、これからの時代、本当これで良いのか?っと今日この頃思う。

 

例えば一例を申し上げると~まず私が同感する例から~

この2,3日前にあった出来事であるが、年のころ70歳くらいのおばあさんが、電車改札口で10円玉を落とされたので、「落ちましたよ」っと言ってあげると、満面の笑顔で感謝して頂き、すごくほっとした気がする。これで普通、そして平和な心を感じる。私も言ってよかったと思った。互いに自然な会話であり、望む人類の平和づくりの超基礎編である。

一方、今回のテーマとなる逆の例として~

翌日、電車内で向かいに座っていた親子づれで年のころ30代半ばくらいのお母さんが、最近の基本スタイルになってしまったスマートホーンに夢中で大事なメモの様と感じ取れるものをカバンから落とされ、後で困られるじゃないかっと思って、「何か落ちましたよ」っと伝えましたところ、実際は大事でなかったメモだったんかもしれませんが、何とお礼どころか、迷惑そうな顔をされ、さっと拾って自分のカバンに戻し、私の顔も見ず、黙ってスマートホーンの画面に戻ってしまったのです。このお母さんって子供の教育大丈夫なのか?うまくいかなかったら、全部学校の責任にしてしまう困ったお母さんにならぬように願うところである。有難うの言えない親が子供に有難う教えられるのか?多分、後でほめてもらえる等、損得に繋がる有難うは教えられるが、有難うという心で感じる気持ちは教えられない人でしょう(残念!)

 

さらに、もう一つ考えさせられる事が、たまたま同時期にあったので申し上げます。

やはり電車内での事で、座った席の横にA4の用紙にぎっしり外国語で書かれたビジネスメモの様なものが落ちていたのです。お金でもなく、カバンでもなく、私にとっては当然何の役にも立たないものであるが、落とした相手にとっては、ひょっとしてカバンや少々のお金より大事なものかもしれないっと、いつもの習慣で私の場合思ってしまったのです。(もちろん大事でないかもしれない)それで改札でそれを駅員に渡そうとしたら、年のころ50代位の駅員に迷惑そうにされた。メモ一枚でも届けられたら規定の手続きをしなければならないからである。それをしなければ自分の責任となる恐怖がよぎったのでしょう。心のない責任感、自分の批判をかわすためだけの責任感が中心で、そもそも、それを落とした人が困るものかどうかをまったく考える余地もなく、とにかくこの狭い短いビジネス人生の時間において、自分の防衛や利益だけに振り回されているような気がする人でした。省略しますがその時の駅員とのやりとりで、何とも生きることは大変、情緒も心も犠牲にして、生きていかなければならないのか?っとあらためて大変さを感じた。私は、このようなパターンを「商売に勝って、人生に負ける」っといつも表現しています。私自身も時に、この例に近いような事をしてしまうこともあり、他人事でないのである。相手によれば、事務的、時間的無駄等を考えてしまう嫌な自分もあり、そのような時は自己嫌悪することもあるのである。やはり何はともあれ堂々とした楽しい人生づくりをしたいものである。 

 

では、今回の一般的には価値のない紙切一枚の落とし物処理の場合どうすればよいのか?それは、若干規定に反するが、しばらく、このA4の1枚を2~3日その駅においておいて、様子を見て、それで落とした人から何も連絡がなければ捨てる等、これくらい自己判断(自己責任)が人生においてあってもいいんじゃないのかと思う。確かに捨てる事で責任を負うが、そうかといって、そうならないために、落とし物について初めから知らないふりすれば、商売の責任はないが、人生の責任を負うのである。(心は知っている) 処罰は受けないが、心がない!

得はするが徳はない!一方でそんな人生はつまらない!

 

この例は、小さな事のようであるが、倫理・道徳・人生観というテーマにおいては、小さくない例である。この小さく見える話と同じ様な応用例がいくらでも存在している。ポイントは一つである、目先の損得に支配されるのか、本来の自分の人生観にぶれない生き方をするかである。長い人生度々この踏み絵にでくわし、心のない無味乾燥な選択や目先の損得に振り回されると、いつかは自己嫌悪になって、そのおかげで反省をし軌道修正される。しかし、ここで自己嫌悪にならぬ人がたまにいてる。そんな人は、うまくできている。人生最大のペナルティが待っている。それは、年齢と共に裸の王様となってゆく。自分の損得防衛が優先順位で自己中心的なため、人の喜びに興味が持てず。当然ながら、周りの友人知人も付き合いが長くなれば一人づつ、この特性を発見して離れてゆく~自然淘汰→結局、人は、何の役に立たない、感謝されない、楽しくない、尊敬されないにすべて該当すれば、残念であるが人は離れる。(原理原則)

 

以上、簡単な例であるが、最近滅法以上のような例が目立つのである。私は思うのであるが、時代は頭中心で心が育つ環境が薄くなってきているのではっと感じる。幼児教育や学校教育だけでない。社会全体が興味を持つのは「損得」「メリットデメリット」「優越感・劣等感」が中心でこれに該当しないものは、軽視する風潮にますますなってきてる気がする。よって、尊敬感謝なんていうものは、消滅方向にいっている。

ただ、極限の努力をしているスポーツ選手や大病患った人は、周辺に感謝している方が多い。逆に感謝するから、それが力となって成長続けているのかもしれない!

以上~

冒頭のフアッションの話、そして倫理道徳感含め、中身の伴わない人々の表面的比較や批判、批評に必要以上に意識し、影響されないいように生きたい!我慢しすぎて本来の自分から遠ざかる、つまり真意でない生き方となって後で後悔するのは当然排除!どうせなら、しっかり自分と自分を比較して納得できるような人生でありたいものである。

                   byみつおの独り言

先日、テレビにて海老蔵の発言に非難、批判が集中している件についてであるが、自分の妻が夏までもたない、3~4か月余命等と言ったためであるが、結局批判の中身は、がんと闘い頑張っている妻が、それを聞いたら悲しむとか思いやりがないと言う意見の様であるが、この意見は、個人的に疑問である。私は、海老蔵の事が好きでないが、これは可哀想な意見と思う。

 

まず、その表面の言葉だけを取って批判することは、特に、この件においては、よくないと個人的に思う。海老蔵は、この言葉においては簡単な心理、精神状態で発した言葉でなく、当人と同じくらい辛い中で、恐怖、心痛の中、妻をしっかり支えるためにも、自分自身がうろたえないよう、いかなる状態でも、子供たちと妻のために自身の気持ちを落ち着かそうとする努力と苦肉の策の言葉の様に見える。

(絶対治って欲しい気持ちと、もし悪い方にいってしまったらという恐怖の気持ちが常に交差している状態)

 

ステージ4のがんになって、転移して「大丈夫」と確信は、持てないのが本心であるのは、当然である。当たり前である。きれいごと言えるほど冷静でないと思う。身も心も美しく強くすばらしい妻であるので心配でしかたない状態の中で精一杯冷静に努力している中での模範トークでないが、充分愛情をもっていると伝わる。

 

それより、海老蔵も妻と一緒にがんと闘っているのに、単純に言葉尻をとらえるの可哀想である。余分な事を言わず、そっと見守ってあげるのが良いのでは?

 

ネット社会において、意見は言うが名乗らない、何かすっきりしない時代になってきた。

以前韓国の歌手がネット中傷で自殺に追い込んだ事件もあるように、やはり、よくわからない事で安易に批判等は慎むべきである。「思いやり」を語るなら、まずそこから~ 以上

                            byみつおの独り言

 

 

 

 

 

                        「欲望

最近ちょっと品のない欲望とちょっと品のある欲望をみて、欲望って人生の柱と感じ、テーマにしたくなった。まったく人の喜びに反応せず、自分だけの喜びしか興味のない人がおれば、自分の喜びは、他人の喜ぶようなお世話をして喜ぶ人もある。一体、人は何を求めているのか?人の欲望は何なのか?

 

 人間から、すべての欲望を取ったら、動物以下になる。何にも欲しくない状態である。

しいて言うならば、食べたい、眠たい位は少しは残る。しかし、それも明日生きる必要もない事に人間の脳は気づき、ならば動物の様に必死になって食べたり、寝たりせず、川の流れの様にきっと身を任せ自然流となるはずだから、きっと大半の人間が静かに死んでゆき、人類滅亡は、急速に早くなる事でしょう。

 

以上の様に、欲望がなくなると人類は消滅する恐れがある。人類がなくなると悩みも争いも何にもなくなるが、一方で人間が存在するから面白いことも一杯ある。よって、バランスの良い人間の欲望の持ち方について考えてみたい!以下、おつきあい宜しく!

 

欲望があるため、人間は、ほぼ無限の苦しみを持つ、これは仏教でいう四苦八苦の内「生老病死(ショウロウビョウシ)」の残りの4苦である①「愛別離苦(アイベツリク)→親兄弟や大好きな人であっても、絶対逃れられない別れがある苦しみ」②「怨憎会苦(オンゾエク)→人を恨み憎んでしまうために自分自身がどんどんしんどくなる苦しみ」③「求不得苦(グフトック)→お金や物や地位や名誉やさらにお褒めの言葉や様々な他人による評価等求めるものが得られない苦しみ」④「五蘊盛苦(ゴウンジョウク)→範囲は広いが肉体と精神が思うようにあつかえない苦しみ」以上のすべてに共通する言葉が、欲があるために思うようにいかない苦しみがつきまとうということである。私は無宗教であるが、この「四苦八苦」に関しては釈迦は、見事な哲学を残して頂いたと、いつもつづく感心してる。。欲のゴールのために必要なものは、努力・忍耐・欲求不満がセットになるが、見方によればこの苦しみを覚悟しなければならない。一般的な、この苦しみが嫌なら、求めている欲を求めなければ良い、ただそれだけであるが、そうもいかないのも人間か?

 

一般的な欲は、わかりやすい。物、お金、愛、他人の評価位なもんである。この欲は、考え方工夫次第でかなり小さくもできる。小さく努力する必要のない人もいてるが、欲のために、努力、我慢が限度を超え、うつ病等になって結果悪い方向へ向かう人は、即刻、欲の考え方を見直し、負担を小さくする必要がある気がします。欲の塊を小さくする簡単な考え方は、欲というものは、必ず変化をし薄くなってゆくものであることを気づくことが大事である。それは、りっぱな諸先輩たちの背中を見れば、証明されている。あれだけ車好きだった人が?あれだけお金の好きだった人が?あれだけ他人の顔色ばかり気にしていた人が?っと、どれもこれも月日が経てば、大半は変化及び縮小している。元々子供時代や人間になかったものが、人間の都合で作られた仮の物に振り回されたり、一時的に虜にさせられているだけであるから、当然時間が経てば、飽きるし、興味も薄れる。まさに、「諸行無常」→この世のものは、物も心も体もすべて変化しているという、やはり釈迦の画期的発見哲学通りである。物だけでなく自分自身の仮の頭、仮の心も全部変化してゆくという事のようである。現在から過去を見ても思い当たる節がいっぱいある。だから、時には今の苦労を子供時代の運動会の練習と同じように扱って、だからちょっとしんどい位に思って気楽に捉え、月日が経てば忘れる程度のものと、今しばらくだけ付き合うくらいに思ってもいいのでは?

 

欲は、人間の遊び!欲は人間の証明!欲は人間のスポーツクラブ!そんな感じ!

欲は程々で、けっして自分の上や前にきて、自分を支配するほど大きく育ててはいけないものと考える。要は、楽しい人生にバランスよく利用するのがベターの様な気がする。

人も物も心も社会も世界も、そして欲も全部変化消滅してゆくもので、一時的なものであり、それはそれでその瞬間は楽しめばよし、逆に手に入れるために必要以上にそのために苦しむ必要なしである。テレビでよく出てくる、様々な悪いニュースは、殆ど欲に支配された結末である。愛だの金だの色々必要以上に欲を追及して事件となっているものばかりである。決して欲が自分を支配してはいけない!欲の正体がわjかればそこまでする必要がない事、又その方法では、欲の達成には到達しないことに気づくあずである。

 

 

では、欲の正体とは?欲ってどこまで根の深いもの?さらに欲も気持ちも考えも諸行無常で変化してゆき消滅してゆくようであるが、自分自身の過去も含めて考えてみよう!

 

物欲の代表格である、良い車に乗っても、運転するとその車は、ハンドルあたりしか見えない、よって「その車を乗っている姿を他人が見ている」その評価に意味があるだけで、評価の目標は、かっこいい!これもある程度年を取ると、こんな欲は殆どなくなる。変化する、消滅するのである。短命の欲なのです。その程度のものなのか?

 

妻に対して、出会ったころは、恋心でドキドキしていたが、今全然それはない!しいていえば今は、又何か小言を言われるかとドキドキする程度に変化する。この様に変化するとは予測はつかなかった。あれだけ好きだったのに、今も嫌いではないが、やっぱり諸行無常か?

 

学生時代、麻雀が好きで好きで1年300日位したことがある。又、徹夜も何度もした。今、何でそんな体にも悪いことをしていたのかと、反省を超えて自分の価値観に疑問すら感じる。今は、早いときには、夜9時台で寝るし、平均11時前後就寝である。えらい変化である。

 

勉強、スポーツ、仕事での営業成績と何かにつけて一番になりたかった過去が、私にもあった!しかし自分が何で1番になれるや、落ち着いて能力・努力・素質の合計して、できる人間と比較したら、勝てるはずがないっという事にすぐ気づくはずである。気づいてからとっても楽である。それより、そんなことをよく考えたもんであると、自分のまぬけさに笑ってしまう。これは変化でなく気づきである。この項目は、ちょっと見当はずれの話もまざってしまった。今更、この文章は、薄かった欲を精算相殺するためにも恥かきペナルティとして、消さないでおこう!みつおの独り言の自由な世界の特権か?

 

話は戻すが~

欲の本質に目を向け、本当にその欲を満たしたいのかを真剣に自問自答すると、特に物欲等は、半減するかもしれない!精神世界の欲は、深く広いが、やはり物は見ての通り有限で

考え方を工夫するのは比較的簡単である。

 

そもそも「欲というもの」が人になければ、争いも憎しみも無、当然中東の問題も無し、アメリカのトランプとクリントンの醜い弱点さがしもなくなるので、一見穏やかな世界かなっと連想される。その穏やかだけは、多くの人間が望んでいる事は、間違いない!しかし、一方欲がなくなることにより、大きなマイナスは、「感動、感謝、感激」という人間としての最高の喜びもなくなることでしょう。多くの坊主の深い考えでは、人間は死ぬために生まれてきたというが、結局、単細胞の私としては生きるために生まれてきたと思いたい!さらにどうして生きるのかと問えば「楽しむために生きる」それを求めて生きるために、時々、感動、感謝、感激に出くわしてゆく!幸福のひと時である。この話をまとめると「人間は楽しむために生まれ生きてゆく」という公式となる(みつお流)。楽しみを求めるので当然「苦」にも出くわすが、その苦は少しだけに留めたいという最後の欲が底にあるが~どこまでも欲がからむ。

 

最後に、欲の獲得達成方法についてですが、凡人(私も)は、平均、あれも欲しい、これも欲しい、評価も欲しい、愛も欲しいかもしれないが、その手に入れる方法が、絶対的に大事である。手段を選ばず手に入れた欲望の満足度は、半減以下、さらに短時間でつかのまの偽物の喜びである。やはり、泥棒ではだめ!うそでもだめ!正直にまっすぐに、相手にも周りにも認められ、いたわり思いやりを持った上での欲の達成獲得方法が絶対条件である。

 

長々と話してきました「欲望の正体」を考え、そして今までの話を総括し、これを自分の後半の人生の目標設定の参考にしようと思うが、結局、何であれ、自他共に喜べる事を目指すことが、最高の満足であり、目指すべき最高の欲という結論である。これが現時点での結論となる。まだまだ進化変化する可能性はあるが、そんな諸行無常も合わせて楽しんでいくつもりであるが、やっぱり、品が良く、程よい欲で周辺にも祝福され喜ばれる欲が良い!私自身も人の感動も喜びも理解でき、伝わる様な感性・思いやりのある自分でありたい!又、逆に自分の喜びを周辺のみんなが喜んでくれるような自分でありたいものである。「人類が繋がっている、人類は兄弟」でありたい!中々、美しく、レベルの高い欲で、人前では言えないが、こそっとこの独り言では理想論を吐き出しておこう! 

      

以上が、私の考えと行動の方針であり人生の目標になってくる。そんなみつお目指そう!っと今日この頃ぼちぼち考え始めた~

                                    byみつおの独り言