Praha でコーギーと♪ 

Praha でコーギーと♪ 

古都プラハ犬コーギー犬との家族の日常を綴ったブログです。プラハの話、犬との生活、勤務先の学校の話、チェコ語、日本語、料理、クラシックのコンサートなどなど、自分の記録です。長々と放置していましたが、また2022年7月から復活しました

アドベントの4週目に入りました。明日はいよいよクリスマスイブです。

無神論者が多いと言われるプラハでさえ、クリスマスマーケットの中心の場所に飾られているのは、イエズス・キリスト誕生の馬小屋での1シーンです。プレゼントを持ってきてくれるのはサンタクロースではなく幼子イエズス。七面鳥ではなくクリスマスのごちそうは鯉のフライ。

年々、クリスマスマーケットは激混みとなっています。実はまだ旧市街広場の大きなクリスマスマーケットには行っていないです。でも近所にあるミール広場はお散歩のついでに寄るのが常となっていましたが、このマーケットとってもすてきなので、人気があるらしく、アドベントのときはものすごく混んでいます。

でも、朝早起きして、ユリンカを連れて行く散歩では、一人二人通りかかる程度でライトアップはしてあるし、貸し切り状態です。朝のとても幸せな時間です。お店は開いていませんが、広場の真ん中をユリンカとゆっくり歩くのです。







 

クリスマスマーケットはヨーロッパ中で行われているイベントですが、なんと昨年、ヨーロッパで最もいいクリスマスマーケットに選ばれたのが、チェコの第2の町ブルノのクリスマスマーケットです。 わざわざ2時間半も電車に乗っては行かないのですが、毎年この時期にJLPT日本語能力試験があるのです。アドベントの第1週目の週末に私もJLPTの試験監督の仕事で土日にブルノに出張してきました。昨年は準備が大変で全く行けなかったのですが、今年は準備も早く終わり、教師仲間とみんなで行ってきました。それにしてもメインの広場のその混みようといったら、尋常ではありませんでした。







それでもせっかく来たので、3つの広場を全部みて、それから、旧市庁舎のブルノシンボルのクロコダイルさんにもご挨拶しました。久々に見るクロコダイルさんは冬なので、なんとセーターを着ていました。





そんな土曜日の準備、翌日は今年は500人近くのJLPTの受験者で、ハンガリー、スロバキアからの受験者も多くいらしていました。みなさん、おつかれさまでございました。

 

JLPTも無事に終わると、今年の授業の最終週を迎えました。自分で主催しているクラスは最終日にはお寿司を振舞うのが慣例となりました。お寿司と言ってもホームメイドのツナや卵、かにかまなどを入れたものです。今年も生徒さんはみんな喜んでくれて、ぺろぺろっと完食してくれました。みなさん、私の授業に付き合ってくださってありがとうございました。





メリークリスマス。

1990年代の思い出です。

カレル大学での留学を終えて、私は当時のチェコ国立言語学校で日本語教師の新米として働き始めました。

現在の勤務先のプラハ市言語学校の前身です。

国立言語学校と言えばナーロドニー通の22番地ねと多くの人に言われるほどの言語学校の老舗でした。

授業の準備も今ほど教材はなく、手作り教材を作り、古い音声教材を使って教えていた毎日でした。

そんな中、学校でのスペイン語のクラスに通い始め、そこで教えていたのが、パヴロというマドリッド出身のスペイン語の教師でした。すごく明るくて、ノリがよくて、パヴロは学校の人気者でした。そんな彼がスペイン人の同僚のオルガという女性がいるんだけど、私と会いたがっているからみんなで飲みに行こうと誘ってくれたのです。

 そこに現れたのが、のちに私の親友となるオルガとそれに同じくスペイン語教師のコロンビア人のイヴァン、それにチェコ系フランス人のソーニャが加わり、毎週木曜日の授業の後、みんなでビールを飲みに行くのが慣例となりました。あっとという間に意気投合し、当時オルガのコテージに泊まりで遊びに行ったり、どこかの家に集まって、パーティをしたりととても仲良くなりました。

 パヴロはその後、チェコ人の彼女と結婚し、結婚式も手作りでオープンサンドをみんなで作ったりしました。ソーニャはフランスに帰国、パヴロは拠点をピルゼンに移し、オルガは娘ちゃんが生まれ、その後離婚し、スペインのアンダルシアで英語教師となりました。そして、イヴァンもマドリッドに留学などでバラバラになってしまいましたが、その後も変わることなくずっと親友なのはオルガです。

 この夏も以前、こちらに書いた通り、スペインから遊びにきてくれました。

今回はオルガが家に泊まりに来た時なぜか、昔話が始まり、ナーロドニーの学校のこと、みんなの近況、あの時あんなことあったねと懐かしい話に花が咲きました。写真を引っ張り出し二人で眺めていました。本当に懐かしいです。

 1997年か98年ごろのチェコの思い出です。共産党政権が崩壊し、まだ10年も経たないチェコはまだまだ、改革途上にあり、混とんとしていました。何でも手に入る現在とは本当に比べ物にならないくらい物もなかったし、もの悲しくなる場所もたくさんありました。でも、それはそれで、私たちは幸せで楽しかったのです。低い給料で、お金もあまりなかったけれど、何と言っても私たちは若かったのです。

当時の写真です。

これは学校の前のナーロドニー通り

向かって右からパヴロ、私、オルガ、ソーニャ、イヴァン

 



次の2枚の写真はパヴロ、私、オルガ、イヴァンの4人です。場所は私が住んでいたアパートです。

 





チェコ人の友人たちもいましたが、このグループはみんな所謂、西側の出身です。何を好んでこの時代にここにいたのかと尋ねられたこともあったのですが、この時代をしっかりと楽しんで、時代の移り変わりをずっと見てきて今に至っています。

 チェコはここ数年で物価が信じられないほど上昇し、お昼のランチも軽く2000円を超えてしまいます。町は華やかで、観光客の絶えない町となりました。あの頃は楽しかったと思いますが、物価は上がっても暮らしやすいのは今です。治安もよく、歩くだけでも楽しめる街、プラハ出身のパヴェルも一緒に歩くと、一つ一つの建物を見て感嘆しています。

 そういえば、チェコは愛犬の国で知られていますが、犬のサロンやお店もたくさんあり、わんこさんたちの生活もずいぶんとぜいたくになりました。人生は犬というチェコの人たちの動物に対する気持ちは今も昔も変わりませんが。

そんなチェコで暮らしています。

 ぜひぜひ、そんなチェコを見にいらしてくださいませ。

 

 

このプログを書いてアップデートしたら、どういうわけか、タイトルだけ残ってあとは全部消えてしまいました。

どうしてなんだろう?

せっかく、書いて、写真や動画も入れたのにがっかりですが、気を取り直して書いています。

リスボンに無事に到着し、レンタカーの会社からウーバーで、今夜のアパルトマンがあるアルファマ地区へと到着しました。アパルトマンのある場所はほぼ、にぎやかなアルファマ地区の中心部で広場のようになっているところで、泊るアパルトマンの名前もCasa de Fado ファドの家というだけあって、1階はファドレストランその隣もファドレストランとたいそうにぎやかな場所にありました。広場にずらっとテラス席が出ていて、アパルトマンに入る私たちはキャリーケースを引いて、テラス席に座るお客さんの横を通っていくという何とも不思議な雰囲気の場所でした。何はともあれ、無事にチェックイン、アパルトマンは中はすっかりリニュアルしてあり、広々としたきれいなお部屋でした。

私の今回の願いはポルトガルでファドを聴くことでした。ファドとはポルトガルの大衆音楽で、人々の日常、喜び、悲しみ、苦しい人生、失恋などなど人が経験することを切々と歌い上げる音楽です。 ポルトガルギターとビオラと呼ばれるギター2本の弾き手とファディストと言われる、ファドの歌手が歌います。

フランスだとシャンソン、スペインだとフラメンコと言った感じなのでしょうか。私はこのような民族の音楽が大好きです。

暗くなったアルファマ地区を歩きながら、良さそうなファドのお店を探します。





あちこちで声を掛けられるけれど、なかなか決められず、でも1軒のファドレストランに入りました。声をかけてきたおじさん、ウェイターさんかと思いきや、本人も歌っておられました。ギターの弾き手も歌い手さんもとってもよかったです。生まれて初めて聴くファドですが、引きこまれました。1人の歌い手さんが歌い終わり、20分ぐらいの休憩があり、その時にみんなおしゃべりを楽しみ、また店内が薄暗くなると、みんな聴き入ります。男性と女性が交代でうたっていました。




私たちはおつまみとワインを頂きながら、このすてきな歌を堪能しました。お店の方がお一人お誕生日だったようで、遅くまでいた私たちにもケーキを振舞ってくれました。女性の歌い手さんもテーブルにおしゃべりにきてくれたりして、うれしいポルトガルでの最終日の夜となりました。

12時すぎにアパルトマンに戻ると、1階のレストランも閉まっていて、テラス席もきれいにかたずけられていました。