『生理の貧困』

こんな言葉をご存じですか?

私は恥ずかしながらこの言葉を知ったのはつい先日のことです。

最近、TVなどで現代の貧困問題として取り上げられているようです。

 

軽くネット上で調べたところでは、

「経済的理由により生理用品が購入できずに困窮している女性や女の子」が抱えている問題とされています。

 

そうした人たちのために、生理用品の無償配布を始めた自治体もあるとか。

 

この問題に対して次のような思いを持つ方もおられるでしょう。

◎今の子はきれいな洋服も着て、スマホも持って贅沢してるのに何が貧困だ、お金の使い方を知らないだけ。

◎布ナプキンを使えばいいのに。

◎月に数日のことなのだから、買えないのなら代替品でいいのでは。

◎親は何をしているの?

◎私はお金がなくてもやりくりしていた。工夫が足りないだけ。

 

私は普段、布ナプを使っています。

市販品の紙ナプを使わない理由は、石油や化学薬品に塗れたものを女性の最もデリケートな部位に長時間接触させておくことに大きな不快感を感じるからです。そんなものに毎月お金を使いたくない。

 

経血量の多い人でも、紙ナプの上に一枚布をかませるなどの工夫をすることで、不快感はずいぶん軽減できて紙ナプの消費量も落ちるのになぁとか、布ナプは一見扱いが難しそうだけど、やってみれば簡単で何より経済的だからおすすめなのになぁとか、誰にも相談されないから特別声をあげることはありませんでしたが、生理の貧困について聞かれたら、以前ならそう答えたと思います。

 

上のコメント群の中で言うと、

◎布ナプ使えばいいのに。

◎工夫すればいいのに。

この問題を短絡的に捉え、安易な解決策を提示してしまっていたかもしれない。

 

貧困という言葉がなく生理についてだけであれば、布ナプを今でも勧めます。

 

ただ、ここに貧困という言葉が付随した途端に、問題は違ってくるのです。

以前の私はそのことが適切に想像できていなかったと今思います。

 

 

 

例えば、

布ナプを一揃い購入しようとすると、紙ナプを買うよりも高くなります。

長期的にみれば大変経済的であっても、仮に保護者がそのことに無理解な場合は、

 

「そんな高いものを買う必要はない、100均ので済ませておけ。」となるでしょう。

 

 

 

仮に布ナプを買えたとします。

経血の処理をしようとすると、家族の理解が必要になります。

家庭内で布ナプを扱えるのは、自分の意向を主張できる立場を家庭内に確立できている人です。

また、きちんと処理しなければかえって不潔になりますから、布ナプを適切に管理できるのは基本的な生活基盤が整っている人です。

 

 

布ナプを一揃い買えて継続的に使える人の多くは

◎貧困層ではない。

◎ネグレクトの家庭ではない。

◎自分以外に女性(応援してくれる仲間)が家庭内にいるか、家庭内で発言権がある。

◎生活基盤が整っている。

 

このように見ると、

生理の貧困問題に布ナプが大きな一助になる可能性は低いと思っています。

 

 

そうなれば紙ナプの一択なのです。

貧困とは、そうやって選択肢の多様さを奪っていくものです。

 

 

では、お金の使い方の問題としてみるとどうでしょうか。

生理の貧困をお金の使い方の問題とする人の多くは、「理想の貧困像」に支配されているように想像します。

 

日本の貧困は、「一見そうだと分からない」ところに根深い問題があります。

きれいな服を着て、スマホを持って、大学に通っている人は、自分の「理想の貧困像」からかけ離れるため、「本当は貧困ではない」と判断する人もいらっしゃるでしょう。

 

 

実際、本当のところは貧困ではない人も紛れてはいるかもしれません。

しかし、一見そうではない中に確実に貧困層が存在すると考えてみなで行動するのが、豊かな社会の実現につながると言えるのではないでしょうか。

 

 

さて、生理とは少し話が離れますが。

 

公立の小学校で教員をしていた時、給食費を払わない家庭がありました。

 

旦那の給料が入ったら払う、

パートの給料が入ったら払う、

生活支援のお金が入ったら払う、

今月は〇〇の出費があったから払わない、

来月まとめて払う、

学期末にまとめて払う、

年度末にまとめて払う、

払わないとは言ってない、

卒業までには払う、

 

本当に色々な表現を見聞きしてきました。

 

そういう家庭の子どもの多くは、「理想の貧困像」とは違う見た目でした。

流行りの〇〇を着ていたり、キャラクターグッズをたくさん持っていたり、

それらが頻繁に買い替えされていたり、外食が続いていたり。

 

当時は、そこに費やすお金があるのなら、給食費払ってほしいと切実に思いました。

 

 

今は少し理解できるように思います。

 

 

布ナプと同じ発想で考えればよいのだと思います。

シンプルで飽きがこず、長期的に使えて丈夫なものは最初の投資が必要です。

 

 

それが難しければ、安くて見栄えがよくて体裁を保てるものを頻繁に買うしか選択肢はなかったのです。

一度、そのループにはまれば、その層から這い出てくるのが難しいのが日本の貧困です。

 

 

貧困とはそういうものだ。

 

 

貧困を自己責任論で蓋をしようとすると、そのツケを払うことになります。

貧困問題の解決には多額の税金が投入されます。

貧困問題を放置すると治安が悪くなります。

貧困問題が、日本の国力や経済力の足を引っ張ることになるでしょう。

貧困問題が国民の発言力を奪い民主主義を危うくするかもしれない。

 

貧困問題は、対岸の火事ではないのです。

貧困の火の粉は、今貧困でない人みなにも、様々な形態で降り注いでくるのです。

 

貧困という概念の捉えなおし、

貧困像の捉えなおし、

そうしたことの必要性をこの『生理の貧困』が教えてくれているように感じました。