「小説代行始めました。」
2026年、2月。
かつて「人間の感情の機微を描かせれば右に出る者はいない」と謳われた作家・九条蓮のSNSに、その一言だけが、凍りついた湖面を割るような唐突さで踊った。
界隈は失笑に近い驚きに包まれた。無理もない。今やAIに「あの有名作家の文体で、火星を舞台にした純愛ものを書いて」と指示すれば、
数秒後には絢爛豪華なメタファーが画面を埋め尽くし、完璧なプロットが完遂される時代だ。
物語の「量産」と「最適化」が極まった、この2026年において、九条の宣言は時代錯誤な冗談か、あるいは文士としての誇りが上げた最後の断末魔のように見えた。
私は指先に残る微かな好奇心。
あるいは、かつて彼のファンだった自分への弔いのつもりで、投稿に添えられたリンクを半ば冷やかしでクリックした。
飛んだ先のWebサイトは、驚くほど簡素だった。
装飾は一切なく、ただ黒い背景に白い文字で、以下のような「代行条件」が記されていた。
• プロットの持ち込み禁止:物語の構成は、依頼者の「個人的な記憶」からのみ抽出する。
・文体指定不可:あなたの吐露した言葉の「温度」に合わせ、こちらで調律する。
・納期は不定:一文字一文字、心臓の鼓動をなぞるように書くため。
報酬:あなたの人生における「最も美しい、あるいは最も醜い秘密」をひとつ。
「バカバカしい」私は思わず独り言を漏らした。
AIなら月額数千円で、どんな秘密も漏らさず、完璧な物語を瞬時に吐き出す。
対して九条は、作家の「魂」だの「感性」だのといった、数値化できない古びた概念を担保に、依頼人のプライバシーを要求している。
だが、マウスを握る手は止まらなかった。画面の最下部、注文フォームの備考欄には、ただ一行こう書かれていた。
「AIには、行間に流れる『沈黙』は書けません。私は、あなたが言わなかったことだけを綴ります」
その言葉は、便利さに慣れきって麻痺していた私の心に、抜き身の剃刀のような鋭さで刺さった。
気が付けば、私はキーボードに指を置いていた。
AIには決して学習させられない、私だけの、あのみっともない夜の出来事を打ち込み始めていた。
数日後、私の手元に届いたのはデータではなく、一通の封書だった。
厚手の便箋に記された文字は、インクの匂いがした。それはAIが生成する
「完璧に整った文字列」とは対照的な、掠れ、震え、時に力強く押し切られた、生々しい「筆跡」だった。
読み進めるうちに、私は震えが止まらなくなった。
そこに書かれていたのは、私が送ったあらすじではない。
私が書こうとして、どうしても言葉にできずに飲み込んだ「羞恥」と「祈り」が、九条蓮というフィルターを通し、美しい毒液となって紙面に滴っていた。
それは、効率や確率、大規模言語モデルの予測からは決して導き出せない、「人間という名の矛盾」そのものだった。
「あなたの罪を、物語として供養しましょう。代行費用は、その罪の重さに応じて」サイトのトップに掲げられたその文言は、傲慢なほどに静かだった。
かつて文壇の寵児だった九条蓮。
彼の綴る文章は、読者の肺の奥深く、澱のように溜まった感情を優しく掻き出すと言われていた。
だが、AIが「最も人間らしい回答」を
確率論で算出する2026年において、
その手法はあまりに湿り気を帯びすぎている。
私はマウスを弄びながら、歪んだ征服欲に似た衝動を感じていた。
もし、彼が「人間の魂」とやらを重んじているのなら、その魂が「真っ赤な嘘」だったとき、作家の筆はどこへ向かうのか。
私は匿名フォームの空白に、指先から溢れ出す悪意を叩き込んだ。
「10年前、飲酒運転で人を撥ねました。死体は山に埋めました。誰にも、一人の例外もなくバレていません。これを、世界中の人間が涙するような、美しくも残酷な『贖罪の物語』に仕立て上げてください」
当然、すべては作り話だ。私は酒を一滴も嗜まないし、そもそも運転免許すら持っていない。
善良な市民という退屈な皮を被った私が、AI時代の預言者を気取る作家を、
その得意分野である「想像力」で嘲笑ってやろうと思った。
ーー続きは明日。





