歴史教育の視点 | 名無しの唄

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鼻歌と裏声の中間ぐらいの本気

学校教育において、歴史という分野はそれなり以上に重大な位置づけを与えられることが多い。
しかしながら、歴史をただ「知る」契機としての学校歴史教育が、果たしてそれを経て大人になった社会人たちにとって、以前として相応の重要性を自覚できるだけの有用性があるかと言えば、かなり疑問だ。
それは何故なのか。何故歴史教育はかように重大なものと語られるのか。そして何故、実社会の大人たちにその有用性を納得させることができずにいるのだろうか。

歴史を学ぶ意義は何か。その一つを、教訓的な思想抽出に求める発想は起源も古く、そして未だ支配的であるように思う。
歴史においては各時代、各事件に原因と結果が伴う。それはつまり、全体として一定の指向性を抽出することが可能であるということだ。
歴史教育は多く、このような発想と成果に立脚する。
例えば過去の日本では、歴史の中から天皇を頂点とする国の積極的前進を抽出し、それを利用して臣民の資質形成につなげていった。そして今では、歴史の中から人権と平和の伸長の過程を取り出し、人民・公民の資質育成を果たそうとしている。
内容は対照的であるかのように語られることが多いかもしれないが、両者は同様の構造に則っている。歴史と教育の関係性を同様の態度で扱うことで成立しているのである。そしてつまり、同様の失敗を犯している。

歴史とは、人工の物語ではない。ただ現実に起こってきたことの蓄積であるという側面が、否応なしに存在している。そしてなおかつ、それは過去に起こった現実である。
つまり、歴史においては必ずしも、現代の教育において理想的とされる発想が活かされて展開するとは限らないのである。
だから歴史の内容を、教訓として教育に持ち込むことは、一方では都合の悪い歴史的事実の捨象という過程を経ざるを得ない。
その方法を、教育の主体的都合に生活を立脚させない一般的な人間が見た時、当てはめる言葉は、恣意・偏向・捏造云々、いずれも教育そのものの信頼感を喪失させ、教育が主張する全ての効能を無効化する印象なのだ。
これが、歴史から教訓を抽出して語るという形の歴史教育が運命的に背負う失敗の経路であり、そして歴史教育が大人に至って意義を保てない理由だ。

しからば歴史を教育し学習する意義はどこに求めるべきなのか。
しかるべき歴史教育の在り方とは、歴史の内容から教訓を抽出することではなく、歴史という材料に向き合う現在的人間の視点において、その方法論や態度に着目して訓練となすことだと自分は考える。
歴史の中に自分自身を投影しながら、その内容的な指向性をくみ取っていくのではなく、歴史に対して現在から俯瞰する者としての立ち位置を堅持し、歴史という漠然とした唯の過去を、如何に解明・整理・分析・記述していけばよいのかという、その視点に立って訓練をすることこそ、歴史を教育という現場に持ち込む意味なのではないだろうか。
すなわち、教育と学問の分断を問題とし、学者と一般人の認識や態度は違って然るべしという認識を改め、まさしく研究者の視点で歴史という材料を自ら組み立てることこそ、現代人全てに必要とされ、現代人全てが有用にしていくことのできる歴史教育である。