京の入り口だった東海道・三条大橋を鴨川から東にチョイと歩けば東国につながる玄関口の粟田口。
平安遷都以前の古代、鴨川を利水に用いた粟田氏が根拠地で、その氏神が粟田神社。
三条通と平安神宮の参道ぶつかる南側に鎮座。
http://www7.plala.or.jp/awatajinja/

で、10月10日の粟田神社大祭・神幸祭に、
祇園祭の原型を伝える剣鉾の「鉾差し」があると聞き及び、参る。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2005051802114&genre=J1&area=K10


正午の境内は、白半被姿の氏子でいっぱい。
拝殿の前に置く神輿(1基)をかつがんと鼻息荒い猛者ばかり。
古社の神輿だけあって、孔雀などの吉祥金工装飾のいい仕事ばかり。


粟田2


舞殿の横には鉾がそびえる。


粟田1


貞観十一年(869)に都で疫病が流行、鉾の刃物は邪気を祓う霊力があるとされ、神泉苑に日の本六十六箇国にちなんだ六六本の鉾を立て、祇園祭が始まった。
その後、祇園祭の主役は山鉾に移ったが、こうした鉾はまさに古式を伝える。
さらに巨大な鉾が横たわる(記憶では6本ぐらい)
鍍金は神々しく、まさに破邪、60キロはある鉾を立てる鉾差しは天を衝くがごとし。


粟田3


が、鉾差しは神輿の露払いとして巡行路を先行するので、神輿見物に集中した拙者は見る機会を逸した。
巡行の祈祷が済むと、神幸祭の行列を成すが為に神主が、平安装束をまとった大学生を行列の役順番ごとに呼ぶのである。
地域の伝統行事は大事といっても、折角の休日を潰してまで参加する氏子は多くはない。
大勢を要する神幸祭の行列を成立させるためには、大学生のバイトが不可欠なのが京都の祭礼の実情だ。
殊に躰を消耗する神輿担ぎは、神輿愛好家が主役もようだ。
ともあれ、
「よーそろ 三拍子」(3回繰り返し)
「よーー」
で神輿は挙がり、舞殿を3周して、


粟田4


頭上の木枝に神輿をぶつけるなと、のさりノサリと境内から参道坂道を降りていく。


坂下の鳥居に到着し、いざ出御!しても、のさりワサリでしかない。
「わっしょい わっしょい」関東の暴れ神輿と比べると、
所々で神輿をシャンシャンと揺らす指しぬき揺れはあるものの、常時はおしとやかに歩み進む。これも雅な京都風なのだろうか