今回参加したガレキ撤去作業は、津波によって倒壊した家を完全に壊し、
その破片を分別しながら運ぶといったものであった。
木材、金属、プラスチック、漁業関係のもの、写真などの思い出の品々、、、
泥や砂にまみれているので、掘り起こさなければいけないものもあるし、木材からは釘が出ているし、
ドアのガラスも割れて落ちているので、慎重に集中して作業を進めなければならない。。
重いものを数人で運ぶ時に一番大事なことは、 「声をかけあうこと」。
一人でも先に下ろしてしまったら大怪我につながってしまう。
実際、ボランティア最中に怪我人が出てしまうこともある。
暑さ対策で休憩も何度も入れながら作業は進む。。
実際、半壊している家などを壊すのには数日間かかり、
そこから今回のような作業を大人の力で40人が1日がかりでやっても、家の半分しか運び出せない。。
しかし、そんな半年経っても手付かずの建物がまだまだ何千、何万とあるのだ。
途方に暮れるような状況だが、このように分別しながらの作業は人の手でしか行えない。
今、まだまだたくさんの人の力が必要とされているし、みんなが「今まで通りの当たり前の生活」を手に入れるまでは、たくさん時間がかかると痛烈に感じた。。
今回は現地の方々とたくさんお話をした。
小学生の娘さんを持つ父親である漁師さんの話では、漁師は1代でやってるわけじゃなく、
父親、祖父の時代から引き継がれてきて、船やいろいろな財産となるものをそろえてきているのだと。
今回の震災で、何千万、いや億を超える被害額にもなりかねない。
例えば、今、借金を背負って、また海に出たって、魚には旬の季節があるし、カキを養殖して獲るまでには3年かかるし、そんなすぐお金になるわけではないのだ、と。
ご家族を亡くされ、家を無くし、船を無くし、何も手につかない数ヶ月。。
合ってるか間違っているかもわからないけど、でも少しずつ進み始めてみている、と・・・
目頭を熱くしながら語ってくださった。
もし自分がその状況に立たされたとしたら、、、と想うと、、涙をおさえることはできなかった。
遊び場を津波で流された子供たちもストレスを抱えていた。
ガレキだらけで今までのようにどこでも伸び伸びと遊ぶわけにはいかないのだ。
家の中でずっと遊んでいるのもつまらないし、、、。。
石巻の大原小学校・矢川小学校に行き、子供たちとドッヂボールやリレーやサッカーをしたり、
その無邪気な笑顔が一番だね。
子供はそうでなくっちゃね。
前回に訪れた寄磯小学校の体育館の避難所にも行き、子供たちと親御さんと再会を果たせた。
仮設住宅に移動した子たちなんかも集まってきてくれて、一緒の時を過ごした。
仮設住宅が完成し、以前に比べたら避難所生活をされている方は減ってはいるものの、
実際はまだまだいらっしゃるという現状がある。
仮設住宅に越せたとしたって、6~8畳の部屋が一つあるだけの簡易的なもので、
いつまでそこでの不自由な生活を強いられるのだろう。
家が無くなった方は、これから何年経てば震災前の普通の生活に戻れるのだろう。
信じられないことに、まだ約5000人の方が行方不明のままである。
気持ちの区切りがつけられず、苦しい思いをされてるご親族の方々もまだまだたくさんいるということ。
フクシマの原発、放射能問題も、まだまだリアルタイムな問題であり、
これからの未来にずっと関係してくるものすごく重大な問題だ。
スイッチを押せば電気がつく、今までは当たり前だったことが、
これからはちゃんとその電気が何で作られているのかを知り、そしてこれから先は何で作っていくのかを話し合っていかなきゃならないだろう。
この状況をシビアに受け取りつつも、でもワクワクしながら、太陽光などの自然エネルギーの開発や普及を願い、声をかけていきたいと思う。
復興のスピードは町によって、あるいは人によってさまざまである。
そのスピードの差によって生じて広がっていくギャップをしっかり感じていかなくちゃいけないし、
そのギャップを埋めていかなくちゃいけないと思う。
Bridge the gaps.
直接的なものや目に見えるとこ以外にも被害は起きている。
日本全体の被害としてとらえることも大事かもしれない。
しかし、決して悲観的になることなく、それぞれがそれぞれの持ち味を出して声をかけていければ、と。
(ケータイだとリンクが正確に飛ばないみたいなので2011年の3/17の記事を読んでね)
3月11日のあの地震、そしてあの津波から、まもなく半年が経とうとしている。
「もう半年」であろうか。「まだ半年」であろうか・・