夫婦について考える。 | No bitter, no sweet☆No pain, no smile.

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昨日の夜中、さて寝ようかなぁとベッドに潜り込んで、静寂の中でふと耳を澄ますと何やら台所で物音がする。
「え?」と思って時計を見ると1時。
台所からカチャカチャと食器の重なり合うような音が聞こえて、何だろうなとしばらくその音に耳を傾けていたら今度は父の大きな声が聞こえた。

どうやら、母が寝ぼけて珈琲を沸かしていたみたい。夜中に(笑)
ウケるんですけど。しかし念のため再び火の元の点検にリビングに降りた。迷惑すぎるよ^^;
しかも暫く早出が続いている父、超キレてるし~~~。

母の不思議ちゃんは今に始まったことではないけれど、私は両親を見て冷静に思ってしまう。
「この人(父)は、この人(母)と死ぬまで一緒にいるのかな?よくいられるよな」って。
私から見たら親だから一緒にいられるけど、夫婦って元は他人だし相手を選ぶ自由もあるわけでしょ。

それは子供の頃から変わらない考え方。
野生のゴリラのようにアバレンジャーな父にどんがらがっしゃんやられても、それでもずっとそこに居る母のことも理解できなかったし。
私は、どうして壊したらいけないのかが今でもわからないよ。
ふっと息を吹きかければ簡単に壊れそうな状態を何故キープしたがるのだろう。何故いっそ壊しちゃだめなのか。
「夫婦」というものに対する捉え方が私は少し歪んでいるんだと思う。

「子供のため」っていうけれど、壊れそうな状態にぶら下がってる子供はどっちにしたって不幸だと思うんだよね。
そこにいることも、両親が散り散りになることも。
そして言い換えれば、どっちだって幸せの可能性はあるはずで。一概には言えないけどね。
つまりさ、ごにょごにょなっていても結局は単純に配偶者のことが好きなんだってシンプルなものなら信じられるかも。

父は今となれば母の存在は「肉親以上」だって言う。
人の数だけ生き方があるみたいに、夫婦の数だけ在り方があるんだろう。
私は、子供に対する愛情なら信じられるけど、配偶者という存在には「我慢」で長年を過ごすイメージしかないよ。

だけど、それは自分で歩いて知っていくんだろうけど。
何故それでもそこに居るのかを。