「NO」の背後に「YES」がある
何事も人任せにしてしまう人たちの典型例は、両親に対して「NO(ノー)」ということを知らない子供たち、そして子供たちに「NO」と言えない親たちだ。
そうした親たちは子供たちの要求に負けることによって、自らの内なる声に気づくことの大切さを減じてしまう。
それでは長い目でみても、親子共に得るものがない。
いずれは両者とも、道をはずれてしまった瞬間へと後戻りし、新たな選択をすることになる。
「自己に価値を置くことと他人へ奉仕することは相反するものではない。両者は同一のことなのだ」
子供たち、親、生徒、患者、そして友人も皆「NO」が真実である時には、「NO」を耳にする必要がある。
そうでなければ、彼らも自分や他人にどうやって「NO」と言っていいかわからなくなるからだ。
知り合いの友人が三歳になる男の子を家に連れてきた時のことだ。
その子は家に入ったとたん、柔らかくなったバナナを窓に投げつけ始めた。
母親は、自由を教えるという大義名分のもとに、物事には限度があるということをほとんど教えていなかったので、なかなか止めさせることができなかった。
この躾という難しい課題について、私はある友人と話し合った時、友人の言葉にハッとさせられた。
「それは本当の自由ではないね。その子には、バナナを投げないという自由がないんだもの」
互いに依存している関係の中で一番大きな罠の一つは、お互いの境界線を引くことができないということだ。
この社会ではどうやって健全な境界線を維持してよいか分からないために、たくさんの人が苦しんできたが、今、自らの権利を要求し維持することが効果的であることに気づき始めている。
子供や生徒や同僚たちとの間に境界線を引かないと、自分を大切にすることとは逆の意味になってしまう。
境界線を引かずにいるのは「自分自身を気遣うほど自分に価値を置いていない」からだ。
自己を尊重することは、あなたの無価値感をくすぐろうとしてくる人の小細工に応じているよりも、はるかにあなたの子どもやパートナーの役に立つだろう。
自分にどれほどの価値があるかを知れば、あなたは恐れからくる駆け引きには動かされないのだ。
ある自己実現の達人は記す。
「あなたが何を支持しているか他人に知らせることが大切だ。そして、何を支持しないかを知らせることも同様に大切だ」
人の言うことを受け入れ従うだけだった生き方をしてきた人が、「NO」と言えるだけ自分を愛することを学んだという。
とくに日本人は「NO」と言うことにためらいを感じる。
相手に嫌われたくない思いと、気まずい空気になるのを恐れる。
不愉快な気持ちにさせたくないという優しさを持っている。
だが本当の優しさは、「NO」と言ったのと同時に「YES」を伝えることだと思う。
「NO」の素晴らしさを学ぶ鍵は、一方に「NO」と言うことがもう一方に「YES」と言っているのだということに気づくことだ。
もし頼まれ事に「NO」と言いたいのなら、これなら(いつなら)できるわよと「YES」になる可能性を伝えることがもっとも親切な行為ではないだろうか。
それは決して相手を否定していることではなく、自分の気持ちも尊重でき、お互いに健全な関係を築くことができる方法だ。
あなたを傷つけたり、いるべきところから遠ざけてしまうことに「NO」と言うのは、あなたを癒し、目的に導かれることに「YES」と言うことなのだ。
自らの魂に誠実でいる時、他人にも、全ての生命にも誠実でいることになるのだと信じていこう。
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