成長を捨てる勇気 ありますか?
私の知人には、ある口癖があった。
私が「どうしてる?」と聞くと、いつも「自分を何とかしようとしている。みんなのようにね」的な答えを必ず返してきた。
多くの人達が自分をただ存在するというよりも、何かになりつつある者と定義している気がする。
この精神的な成長の道のりは、この世で二番目に崇高なゲームといえる。
一番のゲームとは何かといえば、すでに完全であるという意識の中で生きること。
成長しようと努力することはいいが、いずれは探究者であることをやめ、発見者にならなければいけない。
自分とは何かが必要なのではなく、常にあふれ出る状態から生きる準備ができつつある存在だった。
発達しようとしている時に感じる欠損が、自分には力がないと思い込むことの原因になっている。
もともと完全な姿を持った、自分の核心部分を忘れているせいだ。
自分自身の「○○になりつつある」という状態では、決して終着点に到着することはない。
発達途上で生まれる欠損部分と、生まれ持った本当の自分を同一視してしまう時、完全な状態が決して達成されることのない現実へと迷いこむことになってしまう。
自分の一部が自分の全体になるということは、一瞬たりともあり得ない。
なりつつある状態は、常になりつつある状態であり、存在している状態は、いつでも存在している状態ということなのだ。
この二つは平行状態を維持し続け、決して一つになることがない。
ある男が高次の存在が現れた時、こう尋ねたという。
「名は何というのですか?」
高次の存在はこう答えた。
「私は存在する」
決して「そこにたどり着こうとしている」とは答えない。
魂は、「ある」という状態ではあるが、「なりつつある」という状態ではないことを示唆しているのだ。
私は存在している。
今、この瞬間に、だ。
それと同じように無限の存在である自分のことを、それ以下のものと同一視することも拒否しなければいけない。
言い訳はなし。後回しもいけない。
手加減もダメ。延期願いもなし。
ペットのせいもなし。
存在するということは、自分自身のことなのだから。
「成長したいという望みを手放しなさい」
この言葉を見た時、私は自分を成長させるためにどれだけの時間を、勉強や苦手なことをわざわざやることへ費やしていたのかということに気がついた。
「あなたのその成長熱は、一種の欲望だ」
成長しようと多くの時間やお金を自己投資に費やしていた時に、この言葉が一瞬で素のあるがままの自分を受け入れることを冷静に許させた。
成長は確かに素晴らしい道のりである。
だが、ある時点まで来るとそれがワナになってしまう。
自分は人間であり、人間になりつつあるわけでない。
そこに到達しようとしているのではなく、そこから始まっているのだ。
社会は、どこかに到達するということにだけ目を向けている。
より多く、より早く、より安く、ということに取りつかれている。
人々の最善という感覚は、通常、増えることと得ることに結びついているのではないだろうか。
しかし、必ずしも多ければいいとは限らないことを、誰もが知っているはず。
より少ない方がいいこともあるし、すでに十分であることが最善なこともある。
それなのに得ることへの渇望が、発達の途中で精神にまで浸透してしまっている。
もっと学び、もっと参加して、もっと体験することが、必ずしも気づきにはつながらない。
時にはそれらがさらなる混乱を招いたり、心を動揺させたり、目に見えない消化不良を起こすことにもつながるのだということに、そろそろ気がついてもいい頃だ。
成長しようと時間を費やし、努力を重ねることをやめることは、必死にそれをやってきた人にとっては、“勇気”が必要になるかもしれない。
だがその“真の勇気”を発揮した時、初めて自分が成長したことを知る。
遠回りしたかもしれないが、決して無駄ではなく、そのこと自体がすでに完全な自分を受け入れることになるのだから、それは成功以外の何物でもない。
気づきは、外界から得るものではなく、それはここ、自分の内にある。
見出したいものは必ず得られるだろう。
しかし探しだそうとしているものは、自分の手をすり抜けていく。
それは手に入らないものだからではなく、自分にはそれがないという仮定のもとに探し始めているからだ。
自分が望むもの、あるいは少なくともその種子が、すでに自分の中にあると思うこと。
それを確言できれば、あなたの夢は必ず叶えられる。