その時は、分からなかったけど、今になるとそう思うよ。なんで草むらを選んだのか、がね」
「ハル、よかった。分かってきたのですね。きっとそういうことなのだと、思いますわ。
何かを強く思う気持ちが、何かを動かしたり、呼び寄せたりしている。
それがたくさん集まると、大きなエネルギーになるのです。
私は心から愛するものを待っていました。そしてそのものに会えた時、心は本当に強くなるのです。どうか、お願いがあります。
私はたぬきで、あなたは人間。もちろん一緒に生きていくことなど、できません。
分かっています。
でも私のなかであなたを愛する気持ちをゆるしてほしいのです。
どうか心のなかだけでも、あなたを愛おしい恋人と呼ばせて下さいませんか」
「不思議なことで、僕もなんて言ったらいいのか分からないけど、僕のなかでもアンの存在はとても大きいよ。
ただのたぬきだなんて、思えない。どこかで会ったような気がするんだ。
君が足を挟んで苦しんでいる姿をみたときから、ずっとアンを助けたいと思った。
今になってよくわかるなんて、本当に不思議だね」
「ありがとうございます。ハルには、なにから何まで感謝しなくてはなりませんね。
私の望みをすべて一気にかなえて下さった」
アンは痛む足をひきずりながらも、ハルに頭をさげた。
ハルはそんなアンの足が心配で、どうしたものかと考えていると、すぐにピンときた。
「アン。君にどうしても食べてもらいたいものがあるんだ。
少し待っていてくれないか。探してくるから」
そう言うと、ハルは流されてきた道を走った。
びしょ濡れの体が、走るたびに風に吹かれて乾いていくのが感じられて、心地よかった。
なにより愛おしいアンのために、何かができることがうれしくてうれしくて、たまらない。
川沿いを走っていると、元いた場所にたどり着いた。
そこにあったリュックのなかを探ると、まだ残っている。
それは母エドが焼いてくれたマフィンだった。
これを食べたらきっとアンも元気を取り戻すに違いないと思った。
マフィンを手に握りしめると、また川沿いを走って戻った。
自分が流されてきた川をみると、なぜだがさっきまでのだく流がウソのように、おだやかな流れに変わってみえる。
遠くにアンの姿が目にとび込んできた瞬間、アンの小さな背中を今にも抱きしめたくて、どうしようもなかった。
「アン、お待たせ。さあ、これを食べてごらん。きっと元気になるから」
アンの小さな口に、マフィンをちぎって差し出すと、アンはパクパクとおいしそうに食べた。
「すごくおいしいですわ、ハル。これはいったい何という食べ物ですか。
初めて食べました」
うれしそうに笑みを浮かべながら、アンが言った。
「これは僕の母が、旅にでる前に渡してくれたもので、マフィンという焼き菓子さ。
人間の考えたお菓子で、小麦や砂糖、卵とかを使って作るものなんだ。
母が元気がでるようにと心を込めて焼いてくれているから、きっとアンも元気になるよ」
「分かります。すごく心を込めているのが、伝わってきますもの。
やさしいお母さまなのですね。私にも心やさしい母がいます。
ハルにも私の母と同じようなやさしさを感じます。
だから心をゆるして、話せているのかもしれません」
「アンはすごいんだね。人の心を感じることができるんだもん。
僕がアンのお母さんと同じくらいやさしいのか分からないけど、アンの言葉を素直に信じることができるのも不思議な気がする。
アンはなにか、不思議なちからを持っているんじゃないかな」
「これは不思議なちからでもなんでもありませんわ。
動物界では常識的な感覚なのです。
相手を一瞬でみきわめることができなければ、生きてはいけないのですから。
大切なのは、相手の大きさではなく、心の深さですわ。
もしそれを目でみたいと思うのなら、相手が自分を危険から救うまでの時間を計っていれば、わかることです。
迷っている時間が長いのであれば、それだけ自分へ向かう心はそんなに深くはないということ。ちがいますか?」
「それでわざと川に落ちたのかい。僕をためしたのかな。
心の深さをはかられたってことだったのか」
「いいえ、ハル。
ハルの心の深さはハルが私を助けて下さった、草むらのなかで分かりました。
私が川にとび込んだ本当の理由は、さっきも言いましたけれど、伝わっていないようなので、もう一度言います。
ハルが恐れていたからです。
ハルはこれから先のことを不安に思っているし、自分のことを信じられなくなっていました。
だから怖いと思うことを経験すれば、それはただの体験になるということを、伝えたかったのです。
恐怖は体験に変わり、次に向かう勇気になるはずでしょ。
自分を信じられないのは、愛することを忘れているからにすぎません。
ハルはきっと、自分がひとりで旅をしているように思えているのでしょう。
確かにあなたはたったひとりで、旅にでた。
ここまでひとりでやってきたのかもしれません。
でも、今からはひとりではないのです。
私がいますし、ハルのことを大切に思うご家族がふる里には、いらっしゃるはず。
そういう方を思う愛と、そういう方が自分に送ってくれている愛を感じていれば、自然と自分はひとりではないと思えます。
愛に気づけば、自分を信じられるようになります。 ハル、私も同じですよ」
アンはにっこりほほえみ、小さな手でハルの手をにぎった。
ハルもその手を強くにぎり返し、アンの頭をやさしくなでた。
「ただの体験か。さめているようで、温かな感じがするね。
そうだね、僕はまよっていたのかもしれない。
ここにきてまだ何もできていなくて、さっきアリのナッツにも言われたけど、どんな体だって望んだものを受け取れるって。
だからアンにも、出会えたのかもしれないな。
進む者には、出会いが用意されているって本当なんだね」
「ふふふ。ハルはよくわかっているではありませんか。もう、安心ね。
ハルはこれからも旅を続けることができますわ。がんばって」
「アン。もしかして僕たちはここでお別れなのかい。もう、アンには会えないのかな。
僕は出来ればこれから先も、アンがそばにいてくれたら、どんなに心強いかと思うよ。
でも、そうはいかないよね」
ハルは急にさびしくなった。
こんなに心がうきうきする出会いを手放すのは、すごくもったいない気がした。
出会っても、すぐ別れがくるこの旅路が、とてもはかないように思えてきた。
つづく