幼少期.3 【心のライバル】 | 舞踊家 菊地尚子のブログ

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つれづれつらつら。

生涯の師匠となる北井先生との出会いは、高崎に引っ越した直後から、始まります。
小1と言えどもやはり気の強い私は、「私はバレエの初心者ではない、紹介してくれた先生に恥をかかせたくない」などの、妙なプライドを勝手に抱き北井スタジオの初めてのお稽古に鼻息荒く参加したのを覚えています。

そうしたら、なんとまあ、今までやったことのないレッスン内容で、いわゆるクラシックバレエのトレーニングなのですが、以前親が心配して先生に相談する程体がグニョグニョに柔らかかった私は、北井先生に「背中に鉄板をいれるんだ!」と言われ、初のバーレッスンに衝撃を受けました。
センターからのレッスンもとんでもない稽古の量で、今思えば北井先生は大人と子供のレッスン内容がずっと一緒だったのです。大人でもあれだけ稽古の量があるスタジオは滅多にないのでは?と今でも思っています。

すごい衝撃を受け、ショボンと家に帰り、そして翌日は立てない程の人生初の筋肉痛になりました。

それでも将来の夢はバレエの先生なので、休まずヒーヒー思いながらも頑張っておりました。

そして初めての発表会がやってきて、私は同年代達との「うさぎの電報屋さん」という踊りになりました。

東京の本部から、素敵な先生達が夏休みの間5日間だけやってきて、振り写しをしていただけるので、その5日間で二曲をしっかり覚えなければなりません。
全く覚えの悪い私は、これまたヒーヒー思いながらも何とかその夏休みの集中レッスンを乗り越えました。

そしてそんな最中だったでしょうか。
同じ年のゆきこちゃんという女の子が入ってきました。

ゆきこちゃんは、そうそうに発表会の振りに入らねばならなかったのですが、
な、な、なんと、私達同年代の「うさぎの電報」ではなく、上のお姉さん達グループの「ラデッキーマーチ」に突如組み込まれていました。

がびーん。

なんで私より後に入ってきたゆきこちゃんは、ラデッキーなんだ。。。
私の気の強さはそこで最高潮に達し、
家に帰るなり号泣しながら、柱に掴まって足を上げたりしだしました。

ゆきこちゃん、ゆきこちゃん、ゆきこちゃん。頭の中はゆきこちゃんでいっぱいでした。笑

その事を機に、お稽古中からものすごくゆきこちゃんを観察しだしました。

そうしたら、そりゃあもうゆきこちゃんはとんでもなく上手だったのです。

初めてのバレエとはとうてい思えない程、
踊りもですが、すでに意識がとても高く、話すことなども私から見たらすでにバレリーナのようでした。

発表会の写真を今見ても、ゆきこちゃんの意識は出来上がっていた様に思います。他のみんなの写真の写り方とは全然違いました。

そののち、ゆきこちゃんのお母さんがバレエの先生をやっていたことがあると聞き、家にスタジオがあるとか。
しかもそもそも北井先生のお弟子さんだったと分かり、
単細胞な私は納得しながらも
「なんでうちのお母さんはバレエの先生じゃないのよ!!」と母を責めたものでした。

とうてい敵わないとどこか認めざる終えないと分かりつつも、私は密かにゆきこちゃんのことを「心のライバル」と名付けていました。

そんなこんなでバレエでは充実の2年間を過ごしているうちに、
また父が東京に転勤になり、
では私は北井先生の東京本部に通おうと決心しました。

そうしたら、ゆきこちゃんのお母さんが、
「本当に羨ましい。東京行ったら尚子ちゃんどんどん上手になると思う」と
母に話していました。
同じ先生に習うことに変わりはないので、なぜなのか自分的にはちっとも分からなかったのですが、東京に戻って以降また新たな挑戦が始まるのです。

それは、また。

しかし「心のライバル」と決めた気持ちは、その後離れても10年以上消えることはありませんでした。