そうそうちくわといえば・・・ | ★メビウスエッセー 七転び転びっぱなし

そうそうちくわといえば・・・

僕はネリモノ系が好きだ。よく高速のドライブインなんかで見かける、ちくわの実演販売?などをみると焼きたてが食べたいばかりに、待ってでも買う。このちくわ系好きは、今に始まった訳じゃなく、少なくともおぼろげな記憶をもつ3歳の頃には好きだったように思う。


父親の貴重な酒のあてになるはずのちくわを、僕は惜しげもなく(故)愛犬ペスに分け与え、また自らも堪能する日々を送っていた。特に穴に指を入れながらまわりのエキスを吸いつついただく作法が、二度美味しくいただけるので必ず実践していた。



ちくわに飽きたら、指に指したまま愛犬に分け与える「ロシアンルーレットちくわ」は、子供でも簡単にスリルを追求することができ、今なおお薦めでもある。



そんな<ポケットの中にビスケット>ならぬちくわをいつも忍ばせていた僕は、中学生になると、より美味しいちくわを隠し持ち、気分は<ハバナ産>のようなポーズでいただくようになった。いつしか近所でも評判のちくわ小僧はこうして出来上ったのである。



しかし喜びもつかの間。このちくわが二年後に大事件を起こすことになるのだ。



僕の通学路に一軒のペットショップがあった。水槽なども置いてある、ペットショップというより、なんでも屋って感じの中学生には極めて気さくなお店であった。



僕たちは学校の帰りにペットをのぞくのが日課になっていたのだが、毎日のぞいていると、売り物ではあるが情も移ってくる。昨日いた子猫が買われていなくなってたりすると、本当に<娘を嫁に出す親父のような気分>とでも言うのか、つらい。つらいが反面嬉しかったりもする。「幸せにな」などと心の中で手を合わせたりしたこともあった。




ところが、お店で愛嬌がなかったり、可愛くないとやはりお客はつかない。これは犬猫でも同じである。しかし売れないと言うことは、いつも顔が見られるということで、僕たちにとってはラッキーなことでもあった。




不思議なもので、毎日見てると不細工さも可愛く見えてくる。僕たちは大胆にも売り物の子犬に、虎太郎(こたろう)という名前を付けた。シェパードのくせに決定的なブチがあるために売れ残った虎太郎と、僕は友達になった証に、ポケットのちくわをそっと差し出したのだった。




来る日も来る日も、僕たちは虎太郎に話しかけ、陰でちくわを与え続けた。あまり成長させないような配慮だったのか、ペットショップの虎太郎はいつもおなかをすかせていたし、僕たちはそれが不憫でならなかった。




いつしか冷やかしに来ていたペットショップは、「俺たちがちくわを与えねば、飢えてしまう。」という想いに代わり、「俺たちの手で虎太郎を育てるんだ」という団結心を生み、「誰にも渡さない」というエゴは、いつしか興味を示す客がいると、後ろから「こたろー」などとなれなれしく呼び、ペットに名前を付けるという一番大切な儀式を客から取り上げ、購買意欲を失わせる作戦にでたり・・・。




幸か不幸か、虎太郎は買い手のつかぬまま、店先から消えた。





それから一週間、虎太郎を失った僕たちが、生きる屍となって通学路を歩いていると、一際大きな声で鳴く犬がいる。



「あの声は・・・」僕たちは声の方に向かって思いっきり走った。そしてそこに見た物は、店先に繋がれている虎太郎であった。



良かったね虎太郎。お店で飼ってもらえるようになって。
ちくわ喰って大きくなった甲斐があったね・・・。



そうそう大きくなるといえば・・・