今、父がいろいろなところに書いた雑誌の切り抜きをファイルしたものを、データに残すための作業をのんびりやっています。

このファイルは、私と妹の間では「黒ファイル」と読んでいて、決して腹黒いという意味じゃなく、実際に黒いビニール系の表紙のクリアファイルなのです。

これは、20シートなので、実質40ページですが、1ページに一枚ずつではなく、時には1ページ分の袋に数ページ分の印刷物も入っているので、1冊のファイルを片付けるのは結構大変。

1枚ずつ取り出し、スキャンして、タイトルを入れて、元に戻す…この作業は結構飽きます(笑)

紙は劣化する、変色も顕著です。

資料として、いろいろな方や資料館などとも共有できるようになればいいと考えています。

 

同人誌などに発表し、詩集には収めなかった詩などもありますし、エッセイもなかなか面白い。

 

このファイルは、生前父が整理して残したものですが、全部で40冊ほどあります。

今はまだ、ほんの5冊目の半分ほどまでしか進んでいませんが、いい形で整理保存したいと思っています。

 

そんなことをしていたら、今日、ちょっと興味深い短いエッセイを見つけました。

 

1970年4月に新潟日報の家庭というコラム欄に載っていたものです。

 

 

石垣りんという、私の好きな詩人の作品に「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」という長い題名の詩があるが、その中にこんな一節がある。

〈用意(食事の用意のこと――筆者注)のまえにはいつも幾たりかの/あたたかい膝や手が並んでいた/ああその並ぶべき幾たりかの人がなくて/どうして女がいそいそと炊事など/繰り返せたろう?〉 

うちの女房は料理が下手だと思っている亭主がいたら、その原因の大方は亭主の側にあるはずだというのが私の持論だ。亭主が夕食に間に合うように帰宅する。夕食を共にする時間を多く作る。それだけで、女房は料理への励みが出るはずだ。〈亭主の姿が目の前になくて/どうして女房がいそいそと/炊事を繰り返せるだろう?〉

 

 

父は、母が作った料理を食べながら「うまいなぁ」と、必ずと言っていいほど繰り返しました。

それも、調理の仕方まで褒めまくる。

母はそういうのを聞いて、半ば照れて「そんなに褒めちぎらなくていいから」と笑っていましたっけ。

 

実際、私の場合も、料理を誉めてくれていればもっと料理が好きになったかもしれないなぁ~と思います。

世のご主人はみんなそんなものでしょうか?

友人と話をするとだいたい何も言わずにだまって食べている・・・そうです。

 

時間をかけて、「おいしい」と言わせてやろうと精を出して料理をしても何も言われず

「おいしい?今日は頑張ったんだよ」という時の複雑な気持ち。。。(笑)

 

 

父がそういう人だったから、妻たるものが家事に頑張ったら、感謝やねぎらいの言葉を夫側が言うのって「ふつー」だと思っていたのですけどね…(笑)

ということは、父はやっぱり結構できた夫だったのかもしれない。