司馬遼太郎さんが、『坂の上の雲』で次のように書いています。

「一つの時代が過ぎ去るというのは、その時代を構築していた諸条件が消えるということであろう。消えてしまえば、過ぎ去った時代への理解というのは、後の世の者にとっては、同時代の外国に対する理解よりも難しい。」

現代の日本のハーフパンツ少年が、同時代の外国の少年を理解するのはたやすいと考えられます。

何せ、イスラエル軍に追われるガザ地区の少年たちも、周囲にポケットをべたべた付けたスネ丈のハーフパンツを穿いているのですから。

私が、現代のハーフパンツ少年たちに、半ズボンを穿いた自分の子供の頃の写真を見せても、「なぜ、女の子の服装をしていたのか」「女の子の服装をさせられて、『嫌だ』とは言わなかったのか」」と質問されると思うのです。

「半ズボンは男の子の元気の象徴であり、私も好きで穿いていた」と答えたら、「分からない」と言われる可能性も高いです。

半ズボンを理解困難なものにしているのは、それが男の子服として現れたことにあると考えます。

17世紀、男の子服だけに、可愛らしさとか、元気なものとかいった価値を附与した服装が現れたのは、学校教育を受けて社会に出る準備をする必要があると考えられらのが、男の子だけだったからです(宮川健郎『現代児童文学が語るもの』日本放送協会出版、1996年)。

男女は肩を並べて働くのがいいとされる現代では、「学校教育を受けるのは男の子だけ」という半ズボン構築の条件は消えているのです。

ガザ地区のイスラム教徒たちが、西欧生まれのジェンダー平等の影響を受けた可能性のある服装をしていること。

そして、ジェンダー平等の総本山とも言われる国立女性教育会館の図書室に、東京新聞生活面「男の子の定番、半ズボンが消えた」が所蔵されていること。

半ズボンがジェンダー問題と関連がある可能性は、「お釈迦様でも気付かない」状態にあると思います。